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「コスモ・コルプス(Cosmo Corpus)」未来篇(ユイ篇)佐渡での撮影終了!!!(次は「現代篇」!)

9/5/2021

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今年の5月ごろから企画を立てていた、「コスモ・コルプス(Cosmo Corpus)」という映画の一篇、「未来篇(ユイ篇)」の佐渡ヶ島での撮影が先日無事、終了しました。

二年ほど前から家族ぐるみで交流させていただいているユイちゃんと、15年前に自分の未完になってしまっている人魚の映画に出演していただいた、野澤健さんに(リベンジ的に?)
出演をお願いしました。
撮影は、『デュアル・シティ』ではCGディレクターをお願いした守屋雄介君に担当していただき、技術、精神両面に渡り、その無尽蔵の好奇心と行動力で、映画作りの神秘的なものを一緒に目撃できました。
美術は、さどの島銀河芸術祭に続いて、「一万年後の未来」という共通のモチーフで、山井隆介君に山井君らしい壮大で無限に奥行きのある世界を作ってもらいました。

この三人で5月にロケハンをしたのがこの映画の最初期で、その時に守屋君のおかげで佐渡の南側である小木という町の、iroという宿を知ることになり、そこのオーナーである横山裕子さんという
大きなサポーターと出会えたことは、この映画のこの篇の「成功」の大きな要因だったと思ってます。

この「成功」と言うのには色々な意味があるし、元の意味からもズレてそうだけれど、自分としては、後述する理由から、この「ユイ篇」はものすごく成功をした、と感じています。

閑話休題***オタク用の情報として、
撮影前に共有したものとしては、
・お能の『融』
​・ロバート・スミッソンの、"Spiral Jetty"(自分の場合、主に映画の方。山井君が元々彼のアースワーク、ランドアートが好きで紹介してもらい、映画「Spiral Jetty」を近代美術館で見てぶっ飛んだ。)
・松澤宥の「Ψの部屋」(...これも山井君のお誘いで、物理的に存在しなくなる前の、「Ψの部屋」に入らせていただいたことがあります。部屋に滞在していた時の感覚は今でもあらゆるものの指標になっている気がしますし、他にも...大量にあるカッコ良すぎる未発表の習作、本棚にあるSFや科学関係の書物、松澤さんを知る方々の言葉など、自分にとってアートという存在がどういうものであるべきかを定義する、とても貴重な体験となっています。来年の長野の美術館での展示もとても楽しみです。)
・最近ではEduardo Williamsさんの映画、"Human Surge"や"Could See a puma"のことははっきりと明言しながら作っていました。
・また、形式的には似ていないので、誰にも言わなかったけれど、『禁じられた遊び』と言う映画が自分はすごく好きで、ああいった子供だから可能なのかもしれない、タブーな領域に大胆に踏み込んだ上での哲学性(疑問)、それ以上差し引けないパッションというか関係のダイナミズムというのかが、滲み出る映画にしたいと考えていました。

最後に、
・2008年(?)に見た、ピナ・バウシュ「フルムーン」の日本公演。松澤さんの部屋へ行った体験も、鑑賞という厚いベールを超えたものでしたが、ピナ・バウシュはまさに直に自分の存在に関わってこようとするような爆発性があって、芸術に期待できるもののハードルがめちゃくちゃに上がりました。
また子供と遊んでいると、不意に、「カフェ・ミュラー」の、部屋の中を眠ったまま歩く(?)女性が転ばないように、彼女の行手にある椅子を無我夢中でどけ続ける男の人を思わせるような光景に出くわすこともたびたびありました。
それも、大人は誤魔化してしまっているが、子供がはっきりとした形で教えてくれるものに目を向けるきっかけになったように思います。


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Cosmo Corpus(コスモ・コルプス)「ユイ篇」スチール


数年前から、自分の年代もあり、友人のうちへ遊びに行った時などに、友人自身やその周りの子供と接する機会が増えてきました。
友人たちも個性豊かなので子供たちも本当に面白いし、
時の流れが因→果だけではなく、果→因の方向にも絶対流れているに違いない..、
と自分が思うきっかけになるような相互の影響が、彼彼女らと友人たちの間には感じられてとても興味深かった。

最初、この映画は『融』というタイトルで、お能が原作でした。(です。)
思想や人物の構想している莫大な夢という形でCosmo Corpusにも遺ってはいますが、こちらの登場人物は男性二人です。
そこから、補助線として引いた「一万年後の未来」というテーマについて考えるとき、遊ぶたびに驚きや、神秘的な気持ちを与えてくれるユイちゃんが、宇宙にいる様子、地球と出会う瞬間がパッと思い浮かびました。

また、野澤さんには、とにかく深い感情、それこそ地球から人がいなくなって100年200年と生きている人の持つはずの、難しいエモーションを表現する役割を、担ってもらおうと思っていました。

ユイちゃんを今撮ることに迷いはなかったが、子供を映画に出演させることの現実面での危険な影響は、撮影中も頭を去ることはなかった。事故の可能性、カメラの前で演じること自体の不自然性、大人の指示を聞かせることの歪さ、夜更かしをさせたり朝早く起こしてしまったりなどなど。自分が幼い頃感じていたような違和感を、ユイちゃんにはできる限り抱いてほしくなかった。
救いは参加してくれた大人たちの考え方でした。
自らもキャスト、スタッフとして参加してくれた純子さんや、功(いさお)さんは、誰よりもユイちゃんのことを考えた上で、仕事でもなく、狭い視野の愛情でもなく、もっと大事な理由のために、判断してくれていると感じていました。
具体的には、「ユイちゃんと私(他者)との(歳の差は相当あるものの)信頼関係」や、「共同の、すごく価値のある世界の創造」。
それを最大限に尊重して、一役も二役も買って出てくれた上で、私が至らないところははっきりと言って、ユイちゃんを守ってもくれていた。

私はユイちゃんを子役ではなく、天性のセンスを持ったアーティスト、宇宙との繋がり(恐怖も含め)、世界の美しさを教えてくれる存在だと感じている。じゃないとしょうがないなと思い、諦めていたこともあったと思う。でもユイちゃんだったらと思って、諦めたくなかった。そう言ったことをこれからも伝え切れるように、全力を出して関わっていきたい。

最後は息を飲むような神々しいシーンだった。自分は本当に一言彼女に言うだけだった。佐渡ができた頃、まだ名前のなかった島の時代に行われていた儀式を見るかのようだった。まるで無人のような地球、それは、新しいからこその孤独と、エネルギーに満ち満ちた惑星だった。こうして死んでいき、また生まれてくるのだなと海で、ブルーアワーのむせかえるような空気のなかで、感じていた。こういうもの、純粋さ、始まり、を自分が見たいから、映画を撮っているのだなとも。

そういった瞬間を感じられたから、自分には大大大成功の撮影だった。


皆が帰っていく日、じゅんちゃんから、「ヨクナ!車が動かない。これはどう言うことだろう?笑」と連絡があった。近くのホテルに泊まっていたいさおさんと野澤さんは歩いて我々が泊まっていたiroまで来てくれて、状況を説明してくれ、これから
(車が動かなくなった時に電話する会社)(?)を呼んでみると言う。
昨日までなんともなかったのに、今日エンジンをかけてみたら、全くかからなくなっているのだと言う。
しばらく騒然としながら待っていると、裕子さんが近くで見つけてくれて、じゅんちゃんとユイちゃんがiroまでやってきた。焦っているのかと思いきや、じゅんちゃんはやっぱり満面の笑みで、私も笑ってしまった。
「ヨクナ!私たち、引き止められちゃったよ〜。でもね、ちょっと嬉しいんだ。ほんとに帰りたくなかったからさぁ。」
真っ白な明るい外から宿の中へ入りながら、少し照れてるような、ワクワクしているような様子で話すじゅんちゃんは、ユイちゃん以上に少女のようだった。
「お参りに行こうか?」と私が言うと、「お参りはたくさんしたんだよー」とじゅんちゃんが言うので、裕子さんが「お参りしたから気に入られちゃったのかもね。」と付け加えてくれ、なんとなく納得してしまった。ユイちゃんは昨日の熱演とはうって変わって、ずっと絵を描いていた。ホラー好きのじゅんちゃんが、『佐渡の怖い話』という本をすでに片手に持っていたので、乙和池やキリシタン塚、アリガタヤさん達など、自分がこれまで興味を持ってきた、佐渡にまつわる霊的な話をして、以心伝心とか、昔はあったかもしれないのになくなっていくものについて話した。こうして思いがけなく、まだ1日の中の早い時間帯に、みんなでゆっくり過ごすことができた。

その後の展開はなんともまた、不思議なものだった。別行動で車を直そうとしていた、いさおさんから、「エンジンがかかった!」との一報があり、近くの駐車場へ行ってみると、
白昼の中、ドアが開いたベンツを前に、Tシャツ姿のいさおさんがいて、みんなに説明をしてくれた。
「ずっとかからなくてさ、でも、最後の最後に、エンジンの場所がこの辺にあるんだけど、ここを外から叩いてみてください、って言われて。
でもこう言うのって、生きた技術だからさ、できるかわかんなかったんだけど。車屋さんが叩いてくれて。そしたら、かかったの。
でも、このままエンジンかけっぱなしにして走ってくださいだって。」


次は、「現代篇(中学生篇)」と「未来島、過去島篇」。
これから色々本格的になっていくと思うのですが、現在も、佐渡在住のエキストラさんや、出演者を募集中です。
​


現場写真撮影:JUNK THE RiPPER
ロケ地は、佐渡の素浜、小木、二つ岩、椿尾石切場(山口・才の神丁場)、岩場なのは万畳敷、宿根木。他に小木民俗博物館、小木小学校のご協力をいただいています。
まだまだ大量に撮ってもらえたのでこれからも少しずつシェアさせていただきたいです。

コスモ・コルプス 未来篇(ユイ篇)

ユイ:佐久間ユイ
ケン:野澤健
未来人:JUNK THE RiPPER

監督:長谷川億名
撮影監督:守屋雄介
美術制作、監督:山井隆介
照明:日下竜吾
照明助手:石井せいじ
録音、サウンドエンジニア:佐久間功
現地コーディネーター、制作:横山裕子
協力:さどの島銀河芸術祭、フィルム・コミッション佐渡事務局、小木の宿 iro
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さどの島銀河芸術祭2021に参加します! (兵庫さんの記事追記)

7/20/2021

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すっかり夏になってしまいましたが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。

私は、新潟県佐渡市で行われる、さどの島銀河芸術祭2021に参加するのと、
新しい映画の撮影の夏になりそうです。


さどの島銀河芸術祭2021
会期
2021/8/8(日)から10/3(日)
場所

旧虫崎分校

山井隆介君と一つの空間で展示します。
共同コンセプトは、
「一万年後の存在とのコミュニケーション」
ウェブサイト

https://sado-art.com
アーティストページ
https://sado-art.com/2021/06/26/山井隆介+長谷川億名/


佐渡島は、相川にある友人のご実家に泊まらせていただいたのが初めてで、
その後、帰ってきて偶然山井くんから芸術祭のお話を聞き、勝手に縁を感じています。

島へは、新潟港から佐渡の両津港までフェリーで渡ります。
その両津港から車で30分ほどの虫崎集落に分校「内海府小中学校・虫崎分校」があります。
高いところにあって、海が一望できる、とても古くて美しい場所です。
昔は学校の体育館で、今は盆踊りなどの際に集落のコミュニティスペースとして使われている建物をお借りすることができました。

(追記)滞在中お世話になった、兵庫勝さんによる文章。
強い気持ちと、虫崎愛に溢れています。ぜひ読んでみてください。

限界集落の「100人盆踊り」に託す願い 海山の幸豊穣な佐渡島・虫崎
https://renews.jp/article/1356/


フェリーはカーフェリーとジェットフォイルの二種類があって、値段と乗船時間が違いますが、私は最近は新潟に前泊して朝一のカーフェリーに乗っています。
島内の移動では自動車は必須だと思いますが、長距離の本格的なサイクリングやバイクも面白いかもしれません。
後述する、Iroという宿は両津から二時間ほどの小木という場所にあり、南側ですが、こちらも琴浦洞窟や、昔は海の底にあった洞窟で貝殻の跡や遺跡が出土していることから初期の縄文人も暮らし、さらに日本最北の磨崖仏もあったりと現在でも信仰の場になっている岩屋山石窟、そして宿根木、万条敷などだいぶ見所があります。

佐渡では蛍(*六月まで!) や夜光虫も見ることができますし、海はもちろん綺麗です。
よかったらひと夏を過ごしてみてください。


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私の作品の方の映像制作には、
撮影監督として守屋雄介くん
現地のコーディネーター兼出演者として、小木の宿、Iroのゆうこさん
ゆうこさんにご紹介いただいた佐渡琴浦の漁師さんたちや葛原さん、
琴浦や姫津のストリートで出会した方々、さまざまな佐渡の人に関わっていただいています。


話の合間合間の仕草や顔を元にした、ポートレイトとしてまとめるつもりでしたが、
捕鯨船や蟹工船の話など思いがけない話がたくさん伺えて、ドキュメンタリーとしての制作を続けたい感じすらしてしまいました。
ただ話を伺うというのは自分の想像よりずっと面白いし貴重である一方で、基本的に「過去の話」になる。
そこと、その人の創造性を記録することとの折り合いが難しいのだな、と今更ながらやってみて思っています。
語ること自体創造的なことだとは勿論思うけれど、現在の創造性、未来に向かった創造性、何も持っていない軽やかで現実と断絶のある創造性、みたいなものに触れるにはやはり一緒に生活したり長い関わりが大事だなと..。
最終的にはここからの1~2週間で形を決める予定です。



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劇映画自体は3篇の、登場人物も時代も全く違う佐渡を舞台にした映画を一つに交錯させるつもりで、一編目は、一万年後の存在が主人公です。
能にはもともと、時代を超えたコミュニケーションというテーマが入っているということもあり、『融』という演目の中の、

「一輪も降(くだ)らず万水も昇らず」という世界(宇宙)の理を顕すような言葉、
一方で、水面に映った月と水中の魚が重なるイメージ..に驚いて、オリジナルの映画を作り始めました。(この一輪というのは、月のことを言っています。塚本邦雄が本の中で紹介していて心に残っていた、 「月一輪凍湖一輪光りあふ」という橋本多佳子の句を思い出す。子規にも「月一輪星無數空緑なり」という作品があるようだ。どっちも佐渡っぽい。)
結果として、今は登場人物もテーマも、世界の色彩も変わりましたが、融に感じた魅力は少なからず残して行きたいと考えています。

光源氏がモデルとも言われる出世争いから外れた男が、陸奥の千賀(仙台)にある塩竈の美しさを聞き、莫大な労力をかけて海を京都に造ろうとする。毎日難波から水を汲ませ、塩を焼かせ、船を浮かべて楽しむ。その風流というよりは狂気と呼べそうな、厭世的で砂上の大楼閣的な行為、しかしそのあと海は継ぐものもおらず今は荒れ果て、水を入れた桶を肩に担いだおじいさんが、廃墟の只中で昔について語っている..
また、見学させていただいた、6月末の能の発表会で、お話を聞いた祝先生が踊られた演目が「融」だったという偶然もある..。
実際に祝先生の舞台を見て、映画の中でも能のシーンがあると本当に感動するだろうとは思ったが、さらにまとまった予算が必要なので、今年〜来年を目処に今色々な助成金を探しています。


そして結局、6月末は劇映画撮影の予定でしたが、こちらは8月〜になり、
6月中は、守屋君の紹介でIroに泊まらせていただいて(最初の方は写真家の細倉真弓さんもなぜか同行して笑)、ロケハンとリサーチをしていました。
毎日不思議なことが起こってはいたが、帰るとバタンと寝て、朝起きると行動して..という感じで、まとめる機会がなく、これまで過ごしてきてしまっていました。

一人では無意識に省エネしてしまうが、協力して行動すると、それも島のような場所に一つの来るべきヴィジョンを求めての泊まり込みだと、行動も考えも、現象-感覚も、何もかも拡大するなぁと思います。

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今回漁師さん達、奥さん達からは、海女さんの話で聞くような不思議体験は全く聞けなかった...という意味では、北洋も近海の漁師さんもどちらも、現実的、と言ってもよかった。ただしその現実の中の「海」は、私が見ているものよりも、ずっと美しいものだということも言葉の端々からだが理解できた。
ガラス箱を眺めるのが何よりも楽しい、釣りがとにかく好き、海が好き、など..。

琴浦の漁師さん達からお話を聞くところから始まったので、遠洋漁業の、ずっと海の上にいる漁師さん達はどうか..と、姫津へ行ってみたけれど、お祭りや供養や遭難の記憶などはあっても、ものすごく健康的で、やはり実感を伴った超自然的な体験、という風な話は聞けなかった。
(ただし、「この村は漁師村で、石見の国三名の漁師を、相川の炭鉱夫たちが食べる魚をとるために連れてきたのが始まり。数年前にその33周忌だった」姫津で聞いた村が開かれた瞬間についてのこの言葉には、神話のような魅力を感じた。

また、山の人、葛原さんという方には、
彼の祖父母の代まではそういった神と一体の感覚は日常茶飯事だった..、という言葉も聞けた。)

実際通りすがりの人間に生き死にの話、神がかった話は、なかなかしないとは思うけれど、それ以上に、能の祝先生に「幽霊や化身などの役をされるとき、どういう気持ちで役になるのか」と伺った際、祝先生は(人間の)言葉よりも、まず、身体知の方なんだなと思ったように、実際、体で日々感じていることを、言葉で説明もできないだろう。今回の漁師さん達の世界観や現実性についても同じことを思った。

言語は体験から切り離す部分があるだろうし、..山井君とも「超越的な言語」という矛盾について話したが、人間の言語はむしろ、交流を制御する弁のような仕組みになっている(人間の場合は、言語によって交流できるとかよりも、言語がなかったら一緒くたになってしまうものを切り分け、少しずつ交流させたり、概念だけを個別に発展させるような意味で)、方が大きいな..と最近は感じている。
言葉を介してというよりは、排して、漁師さんそれぞれの頭の中に入る位になり、
誰でもの頭の中から、外見ではわからない内面、感性や感覚を通して、哲学的な真理を言葉(映像言語でも。というかむしろ映像言語だからこそ?)で導き出すことまでできたらそれは素晴らしい..
・語れることの深層にどうやったら入っていけるのか?
・例えば動物は映画を撮りたいなんて思わないよなといつも思ってきた。でも人間の子供は皆、おもちゃのようにカメラを使いたがる。



ー

また、両津民俗博物館の池田先生のお話で、佐渡で能がこれほどまでに(一時期は島内に200個とも言われるほど、各集落に一つの能舞台があった。)支持されてきたことについて、能独特の思想が、佐渡の人たちの精神性に合っていた部分があるのだろうか?と質問した時返ってきた答えは、
「能が流行った理由は、民衆の蓄財を防ぐため」というものだった。
一つは能はお金がかかるでしょう。だから、村人たちがお金を使って、上に反乱しないようにした。
もう一つは集落ごとの競争心。この二つによって、佐渡では能が盛んに行われるようになった。-

能が散財させるために..政治的に利用されていたというのはかなり意外でショックでもあったが、世の中の仕組みを目の当たりにした気分で、印象的だった。

「それでも何か、独特の..精神的な共感とかはなかったんでしょうか..」とさらに伺ったところ、
「う〜ん、そうだねぇ、能の鬼の衣装って、ウロコの柄でしょう。それから、佐渡島って、鬼ヶ島のモデルと言われているでしょう。そういう、鬼っていう怖い、でも翻るとすごく良くもなる..そういうものへの共感があるのかもしれない」
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Ludwig Berger "THe Blue Hour Observatory"

6/14/2021

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Ludwig Berger_The Blue Hour Observatory from Madam on Vimeo.



​Ludwig Berger氏のThe Blue Hour Observatoryに参加しています。

さまざまな国の映像作家、詩人、音楽家が協力していて、完成映像では四カ国四人によるマルチ映像に音声が付けられています。
私自身も含めた映像作家は、自分の部屋で、夕方の青い時間帯に、真っ暗になってもう何も見えなくなるまでカメラを回し続ける..という指示に従って撮影しています。
2020年のパンデミックが始まった頃、撮りました。

この体験自体、ものすごく瞑想的で面白かったのですが、(でも目を凝らしていても、やっぱりいつの間にか、真っ暗になっている。)
出来上がった作品をみると、「こんなにみんな同じルールで撮り方違うんだ!」と、驚きがあり、更に面白かったです。

また、ネタバレみたいになってしまうのですが、最後まで見るとわかることがあり、
私がLudwigにごめんね、と言ったところ、
「夜がどんどん狭くなっていく感じがして、それも好きだ」と言っていました。

40分というのは長い時間とは思いますが、興味があったら、体験してみてください。
​個人的に、孤独と繋がりを感じることが出来た、結構好きな作品です。

こちらの記事にまとめられています。

http://www.incfmagazine.com/blue-hour-observatory/

I participate in Ludwig Berger's "The Blue Hour Observatory".

In this project, filmmakers, poets, and musicians from various countries are working together. In the completed video, audio is added to the multi-video by four filmmakers from four countries.
The filmmakers, including myself, have shot in their room during the blue hours of the evening, following the instructions to keep turning the camera until it gets dark and they can't see anything anymore.
I took it when pandemic started in 2020.

The experience itself was extremely meditative and interesting ,(but even if I concentrated on realizing "the moment" to become "night", it gets dark before I knew it.)
Looking at the finished work, I was surprised and even more interesting.
Because everyone takes the same rules but shoots so differently!

Also, but if you can see it until the end you can find something.
When I said sorry to Ludwig about it,
"I feel like the night is getting narrower and narrower, and I like that too" he said.

I think 40 minutes is a long time in the modern time, but if you are interested, please try it.
Personally, I was able to feel loneliness and connection, and this is a work I like.

It is summarized in this article.


​http://www.incfmagazine.com/blue-hour-observatory/


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佐渡滞在記メモ 1 (2019)

5/26/2021

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以前佐渡へ行ったときの写真を改めて整理している。
プレゼント用にアルバムにしたかったがまだできていなかった。
佐渡から帰りたてのいま、作っておきたい気がしている。
こうしてみると、映像とだいぶ違うアングルがたくさんあって、編集で同じ映像だけを繰り返し見てきた身には、時間が増えたようですごく不思議..。
この新鮮さは、映像ではなく写真だから、止まってるから、というのはだいぶ大きいけど、このまま動き出すのを想像できる部分もある。実際、写真集を作る(撮る)のと映像を作る(撮る)のでは、何が違ったんだろうか?声だろうか。
(ちなみにPCR検査は渡航前に行いました)
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乙和池の浮力と、神秘性についてのメモ

5/24/2021

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*文化人類学、民俗学者の池田哲夫先生に両津郷土博物館を一周しながら全ての展示についてお話を伺う、という驚くべき機会をいただいたとき..。乙和池について「個人的な質問なのですが..」と尋ねた時の、池田先生の乙和池の解釈は、この記事だと少し個人的な内容すぎるので、次回きちんとまとめたい。

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新潟県佐渡島のことは既に何度か書いていますが、初めて滞在したのは2019年。
ニューヨークで出会った佐渡島出身のシンガーの、ユカさんがきっかけでした。ニューヨークで言われた、「佐渡に遊びに来たら」という言葉を真に受けて、結局ユカさんのところで二週間くらい、ずっとお世話になりっぱなしでした。

その期間、日々の中で撮らせてもらった映像が、今回の展示には使われています。それらは、牧歌的で、微笑ましく、完結なく思い出を呼び寄せ、自分にとっては、根源的な意味で勇気づけられるものだなぁと思います。
しかし自分のことですから、どうしても、いわばヌミノーゼ的なものに対して、感性が働いてしまうのです。
今展示中のインスタレーションの中には、「乙和池の浮力」という、スギゴケで再現した佐渡の池と、その池にあった二本の木を模した作品があります。
以下、ミニチュアを作るまでに乙和池に入れ込む様になった理由を自分なりにまとめておきたい。

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<乙和池について>
この「乙和池」という場所の映像は、それほど残っていない。恥ずかしながら、機械記録以前に体験を優先してしまったのだった。

何も知らずにこの場所へ連れて行ってもらったとき、山の中の崖の上、ハラハラするような道をガタゴトと、しばらく車で登って行ったことを覚えている..。そのあと森の中の階段を登ると、この池があった。池のさざ波の細かさと絶え間なくふるえ続ける輝きに、真っ先に「ただの場所」じゃないと思った。つまりは、そんなものはこれまで見たことがなかったのだ。しかし今思えば、その時間の止まったような静けさ、ぽっかりと澄んだ明るさ、それら全てを同時に感じていた。
まるで池が...。池自体はただそこにあるだけなのだが..。この場を支配している..。自然に溢れていると同時に、池から広がる、抽象的な空間とすら言えるほどの、天上的な波及。おそらくそのさざ波は、その水の透明度から。また池自体が遠浅で水面から池底までの距離が短いから、起こっていたのだったが、その時は理由が分からず、奇異と思えるほどの繊細な現象にただただ驚いていた。

周囲には鬱蒼とした木々、自分が理解できた範囲ではシダの様な植物があり、それらが発散する水分なのか?霧もないのに、霧の中にいて、霧の中のものを見るようだった。そのみずみずしい緑に、私は、なぜか、「こんなシダ見たことない。欲しい。」「持って帰れたらなぁ」と不意に言ってしまったのだった...。
池のただ中にあり、近づいて見ることはできない(伝承によれば、乙和が入水したあと7日目の雨のあと村人が池に来てみると出来ていたという)植物性浮島の、(伝承通り)意思を持って、(伝承通り乙和が立った場所だけを残して、その周りに)形成されたかのような肉質の厚い群生、鳥居の様な人工物はやはり美しいが朽ちて、ただ置いてある感じがあり、この周辺にみなぎる生命力
に滅ぼされたのでは、とさえ思えた...
しかし..それらは、あの美しい乙和池から感じとった、自分の真正の感覚だったのか?
それとも後の情報によって作られた印象なのか?今ではよくわからない。

なぜなら乙和池へみんなで行った日、ユカさんのお父さんに今日はどこへ行ってきたのかと尋ねてもらい、非常な満足感と共に、「乙和池へ行ってきました!」と答えた時、言われた、
「乙和池。気味悪りぃとこだろ?」という言葉に、面くらったことを覚えているからだ。お父さんは、完全に冗談を言っている感じではなく、どちらかというと真面目な顔だった気がする。私はとにかく言葉に詰まってしまい、なぜそんなことをいうのか、その理由については聞かなかった。しかし何も知らずに経験した「乙和池」の、魅力が倍増するのを感じた。
だから確かに、乙和池へ行った後自分は、あの池を、ただただ美しい場所と思っていた。のだと思う。ユカさんたちに、「すごく綺麗だった。乙和池すごく好きでした」とか、言った記憶がある。しかしそれでも一筋の疑惑はあった..。のだと思う。「あまりにも美しすぎる」と感じていたのか、そのお父さんの「気味悪い」という言葉が、体験を遡って行き、どこか本質を捉えていると感じたのだった。
ほとんどの人は感覚的に納得しないだろうが、私は天使が恐ろしい。(オットーはバッハのミサ曲のEt Incarnatus Est、神の面前で自らの翼によって顔を覆う天使を挙げていたが、自分にとっては天使が顔を翼で覆っている図で既に怖い。
揺らぎというのか、音が移相する時が怖い。
でももちろん西洋的な秩序づけがされており、制作物であり、乙和池の透明な存在そのものとは全然違うが...
「天の聖霊はこの世界の上を飛び回って、自分のやるべきものを探し求める。‘Et homo factus est’のところで聖霊は飛行をやめて、下に下る。この瞬間にこのモティーフは低音に現れて、自らいやしくして肉体をとったことが表出せられる。」

乙和池の上方にも霊が漂っており、霊と物質が不可分なまでに重なり合った存在として、乙和池があった。そして例えば天使が、その美しさ、その聖性ゆえに、悪魔以上に非人間的な媒体として描かれることがあるように、乙和池は神聖な空間だった。


                                                                *                *               *   

​
その後、私が乙和池について検索した結果は、同時代なら誰が検索した結果とも同じである。その中で、乙和池をなぜ生粋の佐渡の人であるお父さんが、「気味悪ぃ場所だろ?」という魅力的な言葉で表現したのか、結論を出したかったが、結局さらに謎が膨らんだばかりだった。

さらに一年経ち、グループ展への参加が決まったあと、展示用ステイトメントのため、村上ゆずさんにオンラインインタビューしていただいた。この時の約一時間は私の中でも自分の作品を反芻する貴重な時間であり、この対話のあと映像編集を再度したことは書いておきたい。
この時まるでカウンセリングを受けるように、滅多に話さない様なことまで素直に話したのだったが..(アセンション・リバーのコンセプトについて話したとき村上さんに言われた、「まるでビョーキですね..。冷静に話せるのがすごいですね..笑」でハッとしたのだが、その後にそのフィードバック的な自己嫌悪もあったほど..、しかし私は話を、考える力がある人に整理しながら真摯に聞いてもらえ、また自分でも発見があって、とても嬉しかった。)

私がこの乙和池以前に不思議に思っていたのは、富士樹海の落ち着く様な美しさと富士山のもとというセントラル性を例にすればわかるように、自殺スポット、あるいは心霊スポットとスピリチュアルスポットがしばしば同じものとしてあげられていることだった。乙和池に関する噂は完全にこの三重である。それについてはガス・ヴァン・サントのSea of Treeが、世界的自殺の名所、樹海を「生まれ変わる場所」として、やや肯定的に取り上げていたが、そのほかにも、「自殺スポット自体には悪い念があるけれど、自殺者が飛び降りる前、歩む場所には、清浄な力がある」などという意見もネット上ではあるが散見できたし、「スピリチュアルスポットは行かない方がいい。他の人の念があるから」などという思想?も、よく見られる。それらの憶測、真偽不明の迷信は、パワーの増減とか引力レベルの少し物理的な?理屈もあり、生まれることを納得はできる。

結局は、「人間は、美しい場所、強い場所に、惹きつけられる」という、ただそれだけなのだろうが、そのような、人を滅ぼすような場所の意味の二重性に、その時は不思議さを感じていた。そして、そういった人間の心、または心が感じとるものを表す的確な言葉が「幽玄」なのだとも、「ヌーメン」なのだとも思った。思ったが、名を知りつつも、いまだにモヤモヤしてはいた。

..だが実は、なぜだかこの2ヶ月くらいで、「能」大全上下、オットーの「聖なるもの」、渡辺和子先生のメソポタミアの生死観についての諸論文、前述したようなネット上の色々な、顔も名前も知らない人たちの深い体験と意見、そして佐渡を再訪し、さまざまなスポットをロケハンに訪れることで、また精神的な意味でも「偉い」先生たちとお会いしたことで、歴史的な規模で人間を捉えることができ、それは疑問を持つまでもなく、"当然のこと"になっていた。そしてもちろんこの間に、私はミニチュアではあるが、大きな乙和池の浮島を、山井隆介くんが実作を担ってくれることで、自分で作ることができた。
結局自分は考えることで納得するのではなく、感覚が蓄積することで何か理解に至る人間なのかもしれない。
また、前述した通り、池田先生にもその後、乙和池について質問して答えていただくことができた。

そういったわけで、乙和池を作る必要性については、ゆずさんがステイトメントに書いてくださった通り、自分の体験を、展示の前に立つ人に再現するためであるのが「一人称」というものの関連で一番大きいのだろう。(でもこれは、ゆずさんに言ってもらってから気づいた。)

最後に、御嶽(ウタキ)について調べた時、既に神聖な域である道中に、戦争中に落ちた爆弾の穴があるというのを知った。
例えば、乙和池がそのように爆撃されたらどうなるのだろう....?と考えてみる。
「密林の下を移動する人間たちがヘリから見えづらいから、森全体を枯らそう」と、枯葉剤を上から撒いたことが名高く思い起こされる。
そのような単純な考えと、科学が結びついた時の力は(ある意味)すごいし、
殺人と共に自然の大規模破壊が行われたことを知るときの惨たらしさも人間が遠くまで来てしまった感慨に打たれる。
そのように乙和池が滅びようとするとき、聖なる強い力によって、乙和池は守られるのだろうか?そして壊したものは、呪われたり、罰されるのだろうか?


乙和池は、伝承の中の大雨も根拠となり、水辺への信仰が根本にあるという記述も見かけた。結果的には「この水辺が消えてしまう」というそういうことに過ぎず、ただ存在している水辺が武力には相転移しないのは当然のことに思える。しかしこの池は、長い間に踏み固められた道のように明らかな聖性を湛えており、人間が享受できる方が不思議という感じも、私にはむしろするのであった。
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展示再開のお知らせ(5/12~)

5/13/2021

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「ジギタリス あるいは一人称のカメラ |石原海、遠藤麻衣子、長谷川億名、細倉真弓」 Takuro Someya Contemporary Art 記録撮影:中川周

「ジギタリス あるいは一人称のカメラ」展、5/12より再開いたしました。
今後もご無理なく、どこかへ行きたいときの選択肢の一つにしていただけると幸いです。
​終了時期については、また決定後お知らせさせていただきます。


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一時休廊のお知らせ(4/25~5/11)

4/26/2021

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緊急事態宣言を受け、「ジギタリス あるいは一人称のカメラ」展は、5/11まで休廊になりました。
再開後、会期が延長になる予定ですので、また日程についてはお知らせさせていただきます。

展示についての詳細なステイトメントも下記ページに追加されましたので、ぜひご覧ください。

https://tsca.jp/ja/exhibition/
(ギャラリーウェブサイトのトップ画面を見ていると、展示写真もご覧になれます。)

健康第一で、ベストなタイミングで皆さんとお会いできるのを、楽しみにしております。


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展覧会のお知らせ「ジギタリス あるいは1人称のカメラ|石原海、遠藤麻衣子、長谷川億名、細倉真弓 upcoming exhibition : Digitalis or First-Person Camera (17 APRIL - 29 MAY, 2021)

3/15/2021

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展覧会のお知らせ
「ジギタリス あるいは1人称のカメラ|石原海、遠藤麻衣子、長谷川億名、細倉真弓
UPCOMING EXHIBITION! : 
​DIGITALIS OR FIRST-PERSON CAMERA | UMI ISHIHARA, MAIKO ENDO, YOKNA HASEGAWA, MAYUMI HOSOKURA (17 APRIL - 29 MAY, 2021)」

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​4月17日(土)より、Takuro Someya Contemporary Artにて開催される
石原海、遠藤麻衣子、長谷川億名、細倉真弓の4名のアーティスト、映画監督による展覧会「ジギタリス あるいは1人称のカメラ」に参加いたします。

写真や映像をベースに制作している細倉真弓により企画された本展覧会は、映像分野の中でもそれぞれ違う領域で活動を続ける4人の作品に見る「一人称的な視点」を通じて、いま現在の私たちにとっての「みる」ということを編みなおす機会になるでしょう。

すべて今回の展覧会のために制作された新作になり、映像作品、インスタレーション、写真作品を中心に構成されます。



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ジギタリス あるいは一人称のカメラ

ジギタリスとは大島弓子の同名作品中において主人公の友人の兄が「眠れない時無理に目を閉じているとどこからともなくわいて出て消滅する不定形の発光体」「その1番でかい1番明るい星雲」につけた名前である。
視覚の実体と現象のあわいにあるような超個人的な視覚の記述であるが、だがいま私が見ているこの世界がそのジギタリスと違うと言い切れる確証もない。泣けば目の前が曇るような個人的な眼差しと共に私たちは日々生きているからだ。
カメラは機械の目による客観的な記録装置として認識されているが、同時に撮影者の視覚を共有することを可能にしたある意味でとても個人的な視線のツールとも言える。
一度カメラをそのように捉え直してみれば、誰かの目の裏をなぞるような、誰かのジギタリスと出会うことが可能になるのではないか。
ジギタリス、あるいは一人称のカメラは、私とあなたの境界を少しだけ曖昧にする、なぞられた視線を逆に辿ったその先にあるものについての問いである。

細倉真弓

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プロフィール
石原海 Umi Ishihara
映画監督/アーティスト。愛、ジェンダー、個人史と社会を主なテーマに、物語をベースとした実験的な映画作品とヴィデオインスタレーションを制作している。初長編映画『ガーデンアパート』、東京藝大学の卒業制作『忘却の先駆者』がロッテルダム国際映画祭に二作同時選出(2019)。また、英BBCテレビ放映作品『狂気の管理人』(2019)を監督。『UMMMI.のロンリーガール』で、英国の新人アート賞 Bloomberg New Contemporaries入選(2019)。ヴィデオインスタレーション『どんぞこの庭』で、現代芸術振興財団CAF賞岩渕貞哉賞受賞(2016)など。

遠藤麻衣子 Maiko Endo
映画監督/アーティスト。1981年、ヘルシンキ生まれ。東京で育つ。2000年にニューヨークへ渡り、バイオリニストとして、オーケストラやバンドでの演奏活動、映画のサウンドトラックへの音楽提供など音楽中心の活動を展開した。2011年日米合作長編映画『KUICHISAN』で監督デビューを果たす。同作は2012年イフラヴァ国際ドキュメンタリー映画祭にてグランプリを受賞。2011年から東京を拠点に活動し、日仏合作で長編二作目となる『TECHNOLOGY』を完成させた。最新作中編『TOKYO TELEPATH 2020』が、2020年ロッテルダム国際映画祭正式出品作となる。同年第12回恵比寿映像祭に参加。
現在、東京で撮影予定の長編三作目を準備中。2021年に初の美術作品となる映像インスタレーションの制作にも取り組んでいる。

長谷川 億名 Yokna Hasegawa
1985年生まれ。2000年代からインターネット上で映像、散文の発表を始め、写真作品「アセンション・リバー」でキヤノン写真新世紀佳作(2013)。これまで、近未来の日本を舞台にしたSF三部作映画「イリュミナシオン」(2014)、「DUAL CITY」(2015)、飛鳥時代の伝説と北斎の春画に出てくる海女を同一人物と捉えた詩を元にした短編映画「The Pearl Diver’s Tale」(2020)などを監督。2017年第9回恵比寿映像祭に参加。環境の記録を目標としながらも、音声と映像のズレ、CGやセリフによる架空、意味を持たないほどに一次資料的な撮影、過剰な時間操作など、手法の誤用によって自分自身に起こる感情(記憶感覚)、映像触感、またそれがどれだけ他者と共有できるかを探求している。

細倉真弓 Mayumi Hosokura
東京/京都在住。身体表象をベースに人種や国籍、人と動物や機械、有機物と無機物など「かつて当たり前であったはず」の境界を再編する作品を制作している。
立命館大学文学部、及び日本大学芸術学部写真学科卒業。
主な個展に「NEW SKIN |あたらしい肌」(2019年、mumei、東京)、「Jubilee」(2017年、nomad nomad、香港)、「Cyalium」(2016年、G/P gallery、東京)、「クリスタル ラブ スターライト」(2014年、G/P gallery、東京)、「Transparency is the new mystery」(2012年、関渡美術館2F展示室、台北)など。
主なグループ展に、「The Body Erectric」(2020年、オーストラリア国立美術館、キャンベラ)「小さいながらもたしかなこと」(2018年、東京都写真美術館、東京)「Close to the Edge: New photography from Japan」(2016年、Miyako Yoshinage, NY)、「Tokyo International Photography Festival」(2015年、 Art Factory Jonanjima, 東京)、「Reflected-works from the Foam collection」(2014年、Foam Amsterdam、アムステルダム)など。
写真集に『Jubilee』(2017年、artbeat publishers)、『transparency is the new mystery』
(2016年、MACK)、『KYOTO by Hosokura Mayumi』(2021年、LOUIS VUITTON)など。
作品の収蔵先として、東京都写真美術館など。
現在、資生堂ギャラリーにて開催中の「アネケ・ヒーマン&クミ・ヒロイ、潮田 登久子、片山 真理、春木 麻衣子、細倉 真弓、そして、あなたの視点」に参加している。会期は4月18日(日)まで。


​展覧会概要:
「ジギタリス あるいは1人称のカメラ|石原海、遠藤麻衣子、長谷川億名、細倉真弓」
会期:2021年4月17日(土)〜5月29日(土)
大型連休:5月1日(土)〜5月5日(水)休廊
開廊:火・水・木・土 11:00 – 18:00|金 11:00 – 20:00
休廊:日曜・月曜・祝日
会場:Takuro Someya Contemporary Art
〒140-0002 東京都品川区東品川1-33-10 TERRADA Art Complex 3F TSCA
Web: https://tsca.jp/
※COVID-19感染拡大防止への配慮から、オープニングパーティーは行いません。

お問い合わせ:
TEL 03-6712-9887 |FAX 03-4578-0318 |E-MAIL: gallery@tsca.jp
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Stream of physicals

3/12/2021

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i finally developed the film rolls that i'd gotten in shanghai 2016. it was notorious film roles that someone  unofficially put the films for cinema into film rolls for photography. so it still has anti halation backing that photography film doesn't have. i should have removed it but no stores accept to do.
so after all i did it by monochrome process. but it was enjoyable! thanks to advices by cinematographer, Mr. Koichi Furuya.

i remember that when i selfdeveloped "Kodachrome 64"  with Mayumi Hosokura. thank you so much at that time, too.

ついに、上海で五年前くらいに手に入れたフィルムを現像した。これは非公式で映画フィルムが写真用ロールに詰め込まれて売られてるもので、裏にハレーション防止の層があって、それを取り除かなくてはならず、どのお店に頼んでも断られていた。
なので撮影監督の古屋幸一さんにアドバイスをいただきながら、モノクロ現像しました。

結果、最終的にはモノクロ現像+お湯に重曹にしばらくつけたあとこすると、黒い層が溶けて剥がれ、傷は残るもののいい感じにできたのですが、
一本目はその層が分厚い感じで全然溶けなかったり、
乾かすとどれもフィルムの色が異なり、本当に面白いフィルムでした。

コダクロームを細倉真弓さんに教えてもらいながら現像したときを思い出しました。
こちらもモノクロ
フィルム現像は印象深いです。

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先日は自分よりだいぶ若い友人のお父さんが助監督で参加されていたというロマンポルノの作品(『団鬼六の妖艶能面地獄』)をVHSでみんなで色々言いながら観て、VHSというものの良さ、(ツッコミどころはたくさんあったが)ロマンポルノの(規制を自然にくぐり抜けるために工夫されたと思われる)不思議なズレ方をした官能の演出の豊かさ、上映を前提とし「映画」であろうとする、芸術として完成させようとする意志を実感した。
機会があるごとに、自分が観た映画の全体像を思い出そうとするけど、タイトルも思い出せない映画を大量に観た時期があり、いわゆる表に出ている名作よりも、そういったタイトルも忘れてしまってもう2度と巡り会えない作品、レアな作品群に大きな影響を与えられているんだろうと思う時がある。
『妖艶能面地獄』の評価は私はわからないのだが、偶然の出会いと言う意味では、そういった映画といえばなんでも観たかった時期を思い出させるものがあって、さらにこの映画自体、限界を超えた夢のような感覚があり、夜の感じを倍増させた。
『妖艶能面地獄』は、引き込まれるところが多く、純愛(?)が非情に踏みにじられるので、ストーリーがそれを意図していたらだいぶエモーショナルになれた、しかし、一般的なエモーション(顕在意識に訴えかけるストーリー)を超えたどこかに爆浸していたのが美しかった。もはや誰の欲望なのかもわからず、世界の代表のように、「それに没頭する」ということの、切なさ、意味の識れなさ、大きな意識の穴。記憶の穴。その様子を観ている私たちと、取り巻く世界の変に醒めた、しかし蠢いているような美しさ。それは非常に大雑把な意味では色々な難所を超えた上で、神秘的とも言える、愛の概念を再定義しているという意味で好きな作品だった。
The other day, I watched a romantic pornographic film ("Exotic Mask in Hell(1988)" by Fumihiko Kato) in which a friend's father participated as an assistant director.
(Although there were many places)
The richness of the sensual expression of Japanese classic romantic pornography (which seems to intend to naturally pass through the regulations),it was the art to be a "cinema" for the purpose to screen. 
 I often try to remember the whole figure of the films that I watched so far, but I had a period that I chaotically watched a lot of movies that I couldn't even remember the title. So I wonder I was influenced by such rare films that
 I can never meet again than the so-called masterpieces that I kept in my list.
I don't know the evaluation of "Exotic Mask in hell", but in the sense of sudden encounter, there is something that reminds me of the time when I wanted to watch anything, and this movie itself has a color of dream that exceeds the limit. It doubled the feeling of the night.
This film was often fascinating, and the pure love (?) was trampled ruthlessly, so if the story intended, it could be quite emotional, but rather 
because the film has been immersing in into somewhere beyond the general emotion (= the story that appeals to the consciousness of manifestation), I could feel Beauty.  They don't know who's desire they have anymore, they are like the representatives of the world, the sadness of "immersing in it", the in-comprehensiveness  and the big hole of consciousness". A hole in memory. Us watching the situation and the the world around us, but sober.
It redefined the concept of love, which was mysterious after overcoming various difficulties in a very rough sense. and I liked this piece.
 


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Cinema Screening Club  No.1 :
"Exotic Mask in Hell" by Fumihiko Kato (VHS - 1988)

The atmosphere of bad customs like Japanese modern horror's isolated local countryside is nice. Shots were beautiful and it stimulates unconsciousness. Erotic scenes are sometimes looked absurd because of the objective shots. on the other hand, such sensations wondering remembering something that is completely forgotten are stimulated by some scenes and it was erotic. (For example the first shot of a tunnel)

団鬼六『妖艶能面地獄』
日本の現代ホラーの孤立した地元の田舎のような暗い因習の雰囲気。 ショットは美しく、無意識を刺激します。 エロティックなシーンは、客観的なために不条理に見えることがあります。 一方で、完全に忘れられたものを思い出すような感覚は、いくつかのシーンに刺激されてエロティックでした。 (たとえば、トンネルの最初のショット)
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古屋さんのフィルムカメラも拝見させていただく。夢いっぱいな気持ちになった。Mr .Furuya`s Cameras were beautiful. Big dreams!
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new name card

3/3/2021

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Yokna Hasegawa 長谷川億名 Name Card 2021 Designed by Ryusuke Yamai
Designed by Ryusuke Yamai

Firstly I handwrote a large amount of all of my name, then he searched and collected each character and recomposed it.
The mark apparently triggers the association of the cross. 
But it's actually the shape of road of Yoknapatawpha County that is the name of place of William Faulkner's novel. Because my name is named after that name of land. 

But through the process for me to be connected with the shape of land,  I mysteriously felt stronger image than only have connection of sound or meaning.  it gets more actuality.
Also, the map itself is connected to the concept of Yoknapatawpha by Faulkner. To find its similarity with the cross is interesting.

This is also the idea from Yamai. Thank you so much!

Though it's still difficult to see directly, let's exchange something.
The news is also coming soon, please check it out!

Yokna


山井隆介氏に新しい名刺をデザインしていただきました。
名前部分は、私が大量に自分の文字を手書きしたものから、山井氏が一文字ずつ探し出し、再構成したものです。
マークは明らかに十字架を連想させますが、実はフォークナーの小説の中に出てくるヨクナパトーファ郡の地図の形からデザインされています。
でも、土地の形と繋がる過程で、音や意味だけの繋がりよりも、不思議なことにより現実的な、強いイメージを感じました。 
また、地図自体がフォークナーのヨクナパトーファの概念に関連しているので、 十字架との類似性を見つけることは、興味深かったです。
これも山井さんのアイデアです。 どうもありがとうございます!

www.ryusukeyamai.com

依然として直接会うのが難しい時期ではありますが、何か交換しましょう。
近々お知らせもありますのでお楽しみに!

​よ


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    ▷new websiteができました!
    https://yoknahasegawa.com/
    ブログはこのままです。今年は記事も2割増しくらいの頻度で書きたい。

    ▷今月考えた本:
    『ヘヴンリー・ブルー』
    早坂類

    ▷Yokna  Hasegawa 

    ​(長谷川億名)
    ​INTP・女

    ​
    yoknapatofa@gmail.com

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