Evernoteを整理していて、2年くらい前に安楽死についてのアンケートを読んでから書いた下書きが出てきた。 ジャン=リュック・ナンシーのリンクも同じ下書きにあった。「このリンク先を理解してからブログを書け」との指示。結局わからなかったので下書きのままだと思うのだが、その後の二年の間に『無為の共同体』を買った。 ただ、まだ全然わかってない。 ナンシー『無為の共同体』を解読する https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-nancy-communaute/ ----- 『安楽死が合法の国で起こっていること』 児玉真美 著https://president.jp/articles/-/77281?page=1 https://www.amazon.co.jp/%E5%AE%89%E6%A5%BD%E6%AD%BB%E3%81%8C%E5%90%88%E6%B3%95%E3%81%AE%E5%9B%BD%E3%81%A7%E8%B5%B7%E3%81%93%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%EF%BC%91%EF%BC%97%EF%BC%95%EF%BC%99-%E5%85%90%E7%8E%89-%E7%9C%9F%E7%BE%8E/dp/4480075771 概要を読んだだけでもとても興味深く、安楽死、尊厳死、医師幇助自殺の違いなどもやっと知った。カナダのラディカルさが興味深い。 医師やシステムの暴走、暴走しないシステムの構築の難しさ、そもそも死を選ぶ前にもっとできることがあるのではないかなど、(自分の常識や感情性とは全然違うプロフェッショナルな現場やマインドセットがあるのだろうから、批判とかではなく淡々とした業務のようになっていくのは全然あり得ると感じた) 一時的かもしれない状況の外圧で自死を選ぶことと、身体的な不治の病や障害による痛みや生きにくさを感じ選ぶこと、精神的な理由によって選ぶこと。混ざっている領域もあるだろうけどそれぞれ死を選ばずに済む方法はあるのかもしれない。さらに詐欺のように死を選ばされる危険性もあるのかもしれない。 こう言った現実性と自分が思う事は違う層のことなのだろう。 一つは、純粋な死を望む気持ちはあるのではないかということ。ただ、それが「病んでいる」ということでも「治すべき」こととも私は思わずこれまで生きてきたけれど、たとえば社会や身体が完全にストレスフリーなものだったら死にたいというアイディアが出るかどうかは確かにわからない。(『ハーモニー』みたいになってきた) 自分ーポジションから逃げたくなる、あるいはポジションを奪われる恐怖、「死ななければ殺される」ような感覚。 自分は旅をすることで擬似的な死を行い、とりあえず生きた時期があった気がするけれど、それも乱用すれば根本的な解決にはならないかもしれないし、お金もかかる。 ナンシーの言うように、今の装置的な社会の人間の捉え方、集団が何のためかよくわからないけど目的(再生産、維持)に向かっていること、が、なくなれば、..死を望む気持ちは、その時にやっと初めて正当(オーガニックで、哲学的)になってくる考えだろうか。 ------------ そしてその下書きのもっと前に、『宛名のないメール』と言うSNSで読んだ手紙をコピペしたものがあった。 https://www.blindletter.com/ でもサイトで文章を検索してみても出てこなかった。 URLも保存しておらず、作者がわからないのだけど、読み返して、申し訳ないのだけどものすごく転載したくなった。 この「宛名のないメール」に比べると、私が書いていることは存在価値ゼロだと素直に思う。地元新聞で、ナンシーの思想について「投壜通信」と書いていた記事があったので、海にメッセージを放つモチーフの「宛名のないメール」と繋がった。
スイスの合法的な安楽死についてのアンケートを読んで(Friday, May 13, 2022, 11:04 PM) https://www.swissinfo.ch/jpn/%E5%AE%89%E6%A5%BD%E6%AD%BB-%E8%B3%9B%E6%88%90-%E5%8F%8D%E5%AF%BE-/46004884 昔から、もちろんその時その時で大変美しくて純粋なものに触れて、胸が震えたこともあったし、神様に感謝したい、とか、この人に会えて本当に良かったと思う瞬間も沢山ある。 生きることの意味は、存在間の愛とか感性、神(と言える感覚の方向)を愛すること、それは意味とも言えないようなもの、生きることそれ自体であると思う。 このスイスでの安楽死についてのアンケートはとても参考になったし、何か冷静になれた気がする。そもそも死ぬ権利を持てない理由はなぜなのだろうか。 色々な意見で安楽死賛成が多いけれど、反対意見で印象的だったのは、 「ナチスのような奴らが現れたら悪用する」 「生きるのも生きようとせず、死ぬのも死のうとしないのが自然」 ということだった。そんなふうに自然に生きて死ねたらそれは理想だろうと思う。 あとは当たり前だけど一番の問題は、「その人の生きる苦痛がその後もし、生き続けていたら、消え去る可能性がないわけでもないこと」だと思う。それは誰もわからない事だけど、特に周囲の人は期待する事なのではないだろうか。 一方で、アンケートの中に、 「安楽死があることが、生きることの中でお守りになる。絶対死んではいけないと思って生きることと、何かあったら死ねる、と思って生きることには大きな違いがある」 このような意見だったけれど、わかる気がした。決して閉じ込められているわけではない、死ぬことも生きることも、自分の自由なのだと気づけば、逆に湧いてくる力もあるのではないだろうか。 大勢の人々の意見が見えるようになり (例えば、電車が誰かの自死("人身事故")によって遅れた時。帰ってから思い出し、その日付の事について調べた。「他人に迷惑かけんな」と言うツイッターの人。同情的な人はあえて呟かないかもしれない。誰が亡くなったのか。高校生の男の子だった。そんなに若くして、何が原因かは私には分からずじまいだろうが(あるいはもしもう少しだけ知ろうとすれば、わかるのかもしれないが)、なんでわざわざそんなに辛いやり方で死ななければいけないのだろう?と思った。 長い時間をかけ考えられる、引き返せる時は引き返せるシステムを作る。 でもそれも、一人一人が自分らしくいられる社会が構築できれば、必要のない事だろうか。 "労働と「作品」によって本質を生み出すものとして人間を規定すること、共同体を生の意味を回収するものとして捉えている。問題はその点にあるのだ、とナンシーは考える。 共同体の喪失という意識は、ひとつの幻想かもしれない。というよりも、むしろ、共同体は「絆」のようなコミュニケーションとはまったく異質のコミュニケーション(これは産業社会の内部には存在しない)から生じて、関係の「分割」から生じるものの場所を占めたと考えるほうが正当だろう。生産=有為に絡め取られているので、解体の幻想を抱いてしまったのだ。 孤独に存在する個々人から組織される、生産(=有為)の体制。これが民主主義から出発してファシズムに行き着く全体主義的、内在主義的な共同体である。 特異な存在者は、諸存在の混沌とした同一性という基底、あるいは生成という基底、あるいはまた一個の意志という基底からとりあげられるものでも、そこから生い立つものでもない。それは有限性そのものとして出現するのだ—最後に(あるいは最初に)他のひとりの特異な存在者と膚を(あるいは心を)触れ合うことによって。 特異な存在者は特異であることからして、おのれの特異性という分割のパッションー受動性、苦痛、そして過剰—のうちにある。他者の現前は、「私の」情熱の狂奔を食い止める境界とはならない。逆に、他者への露呈のみが情熱を解き放つのだ。 この点についても、ナンシーは表象的にしか論じていないので確定的なことは分からないが、おそらくハイデガー的な死の不安に対抗する根本的な気分(情状性)として、歓喜を置いているように見える。 ハイデガー的な共存在を支えているのは、可能性としての死の不安だ。ハイデガーの本質観取によると、死の観念は私たちを「単独化」する。私たちは身の回りの世界から切り離されるとともに、実存の自覚(自分はただこの一回限りの生を生きているのだ、など)に達することができる。ハイデガーにとって、民族の運命共同体とは、そうした死の不安の自覚に支えられて成立する本来的な実存に目覚めた人びとの共同体のことだ。 一方、ナンシーのいう共同体は、不安ではなく、情熱すなわち歓喜に基づいている。 ハイデガーでは、本来的な語り(言葉)は、良心の呼び声として、現存在に降ってくる(第57節)。それは日常の生活に落ち込んでいる私たちを呼び覚まし、先駆的決意性(=死の深い自覚に基づき、本来的な自己のあり方へと目がけようとする意志)を了解させる。 だが、ナンシー的には、言葉が実存の真理を明らかにするという構図は成立しない。そうした構図では、良心の呼び声以外の言葉、「エクリチュール」は、頽落した言葉、すなわち「空談」におとしめられてしまう。だが共同体は、死という有限性を共有する特異性の間における感情の“交換”において成立する。このことは恋人関係に限らない。共同体は目的や「真理」をもたず、また「作品」でもない。 特異性の、そのコミュニケーションの、その脱自の描く線は政治的なものであるだろう。「政治的なもの」とは、おのれの無為に向けて構制された共同体、みずからの分割の体験を意識的に遂行する共同体の謂でもあろう。このような意味作用は、通常私たちが理解しているような「政治的意志」には、少なくとも単にそれだけには、依存していない。それはまだこれから考えなければならないことだ—その意味作用自体が、無為と分割の体験に依存しているのだから。書くことを止めてはならないのだ。 " ナンシーはバタイユの至高性によって、互いの領域を超えていくイメージと書いてあった。 田崎さんは、ヴェイユのカイエ4を元に、一般的な理論=サド/不感症な ではなく、「マゾ的理論」を構築できないか、と書いていた。 自らが疲労し尽くした時、存在が自分から何も始められなくなった時、その時間が止まる。(救済がありそのためにそれまでの犠牲があるという「時間」ではなく、グノーシス的時間、つまり時間の放棄) その時間が止まった生の中で、人々は、被虐者としてイデアを分有する。犬と犬が犬のイデアを分有するように。そしてその中で初めて、人はコミュニケーションをとることができる。 おそらく、苦しみの中で人は受動的でありながら主体的にもなり、人をパトスで感染させるから? 自分が今の状態で理解したのはそういう風だけどまだ読んでいきたい。 正直、このコミュニケーションにはハードルの高さを感じたけど、バタイユの至高性(恋人)と表裏と考えるとわかりやすいのかもしれない。(けどこれもそういう図式で正しいかわからない) 私は、投身自殺をしようとする人と、そういった共同体を、コミュニケーションを築けるだろうか。私が投身自殺しようとする時、逆はどうだろうか。私はその人の話を聞くだろうか。そもそも気づけるだろうか。 でもそういったシーンを、多くの映画やドラマで見たことがある。 その高校生についても、私はしばらく忘れていたけど、もしかしたらスクショやノートがあるかもしれない。そこから何か新しい情報に接することができるのかもしれない。 でも、どうだろうか。 ナンシーの「投壜通信」の要素について自分はまだ明確にわかっていないけど、この「宛名のないメール」の送り主は、自分で「ぼっち」と言っているけど、そうではないと感じる。実際私はゲームも知らなかったし、返信もしなかったのだけど、こうやって文章を保存していた。それは不思議な繋がりだが、確かに感情的な何かだと思う。
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