in April, my new film will be released for new york poetry month. This is the still from "The Pearl Diver's Tale after Hokusai's Ama to Tako" Dir : Yokna Hasegawa, Choreographer : Miwa Okuno, Cast : Miwa Okuno Mai Kubota, Original Poetry From : Shin Yu Pai further information is coming soon🐙 海女の珠取り物語〜北斎「海女と蛸」に基づいて 監督 : 長谷川億名 振付 : 奥野美和 キャスト : 奥野美和、久保田舞 原作詩 : 白欣玉
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Series Novel - 昇天川 (Since 2012) PDF https://drive.google.com/file/d/11P0-B58yaLt-8r2sUD7TCvd1Ia0ZMJQh/view?usp=sharing 火と戦争と家事のロアである「オウゴン」に憑依された者は、火に傷つけられない -- 悪を知らない善は悪に打ち勝つことができず、善を知らない悪も、善に打ち勝つことができない、 打ち勝つーとはどういうことか? 拝啓--- 君にはまだ、私が信仰を持ったことについては言ってなかった。 わざわざベトナムで、わざわざフィリピン人の先生だけの英語学校で英語を勉強している時、周りは全員キリスト教徒だった。語学の上達の代わりに、十字が刻まれたネックレスだけはちゃっかり手に入れて、私は日本に帰ってきたというわけだ。−それは何故だったのか?ベトナムにいる間、あるいは彼女らの信仰に耳を傾けている間、私は突如として、今まで生きてきた意味がわからなくなった。 生きている、しかし何のために? 多くの人、特に日本人にとって、この問いはたやすくスルーできるだろうし、あるいは哲学的、もしくは多くのユニットからなる、社会的な縛りにすり替えることは可能だろう。しかし、その頃の私---全部の人間関係を切断し、アイデンティティを消去した後にも残る混沌は、器のない水のようにただ存在し、世界中に拡散した。私は私でさえ無くなったが、それでも「生き」ていた。 それとはまた別の話になるが、はっきり言って、エロス、それが、私を教会に導いた。それを、この手紙のどこかで言わなきゃいけないので、今ここで言おう。 そう、それはエロスなのだ。そして、エロスは失われ、葉が落ち切った後信仰の木だけが残った。私はこの信仰の木が割り箸のように二つになり、マザーアースに突き刺されているがためだけに、それに引っかかるようにこうして今も立っている。 君にはいつもよくしてもらったのに、悪かったと思っている。 でも君ならわかってくれるだろう。 自分の中に天使の加護への信頼、待ち遠しさ、忠誠の光を保つと共に、どんなことがあって、変わることのない、悪魔への共感があることに まさに三角関係なのだが(よく、あの湖を底辺にした、とんがった逆円錐を思い出すのだ) 全ての善悪はただの現象として、ドラマ性もなく、equalになる。 あるニュースの中で、小さい男の子がパジャマ姿で夜道を歩いていて、「家に帰りたくない」と誰かに言ったと言う。それで何故かと聞くと、「いもうとが皮がむけてねているから。」と答えたと言う、 その時、焼く、と言うのは、凶悪だなと私は思ったんだ。叩くとか殴る蹴るに比べて、また別次元の衝動があると。 それを今朝方思った事を、今この、プレイヤーズブックを、燃やして捨てようとした後に思い出す。 そして、私は今、自分の心に、どれだけ少年時代への名残惜しさ、未熟さがあったとしても、どう考えても今、私の立場は、被害者である子供たちではなく、「この母親である。」「ほとんどequalだ、」と思ったのだ。 祈祷書を手に入れたときは、まるで世界の中心にある無垢で小さな宝をようやく見つけ出し、手に入れた気分、掌サイズの真実の愛を手に入れた気分、これを守るために生きていこうと、それが私の生きる意味だと、--そう言った感じだった。数ヶ月間、祈りの言葉を声に出し、毎日1時間かけ、跪き、時には世界の未・既の奇跡に涙を流し、懸命に祈った。 それを、焼こうと決心した時の痛みと絶望が、いかほどのものだったか、きっと君ならわかってくれるだろう。私が好き好んで、悪を行うタイプの人間ではないと。 しかしそれは結局未遂に終わったのだった。何度マッチを擦っても、なぜかその小さな折りたたみ式の祈祷書には、火がつかなかった。少しの焦げがつくだけで、それは絵の中のイエスには、絵の中のマリアには、絵の中のいずれの字にも、達さなかった。 その後は急激に睡魔に襲われ、10時間も眠ってしまった。 起きた後、自分の行為への罪悪感は微塵もなかった。こう思った。信仰は間違いなく残った、これはその証明なのだと。 私はフェイク(仮象)を消そうとしたのだ。それはあたかもロミオの最初の恋のようにフェイクであり、それは導きでしかなかったから。 私すら知らない、私の痛みを、神は知っているのだから。 (-のちに、こんな対話があった- でも...結局、その子から貰った、小さな祈祷書は燃えなかったの。紙の質が、燃えないようになっていたんだろうね。それで、私は良かったなと思ったんだ... -傷付けようとして、結局相手が傷つかなくて安心するなんて、倒錯してますね-) (2019年9月、再会に。) 意識のフロー状態が緩みながら消え去ると、一つテーブルを挟んだ隣では、人の良さそうな初老の婦人と、メガネをかけたスーツ姿のサラリーマン然とした男性が話を続けていた。地元で唯一と言っていい、かなり飲めるコーヒーを出す喫茶店では、いつもの如く、ゆったりとしたジャズが流れていた。目の前には冷めたコーヒーがあり、私は手持ち無沙汰に、カップに口をつけた。 「昔の日記を読んだりすると、”スイスにハイキングに行きたい”と書いてあって..ずっと行きたかったんだなぁ、って..」 しばらくページをめくってノートを読み返すフリをしながら、隣の声の意味を解釈していた。その端々から、この婦人は、近い親戚の病状の相談を、この男の人の方に、しているのだろうと見当をつけた。しかし、保険や治療といった内容ではなく、これからの生き方についての相談、またコミュニティ的なサポートについて聞いていると言った感じであった。 さて、自分の今し方書いたばかりのこの文章をどうやって磨き上げるか半ば投げやりな気持ちになりながら、ベトナム で知り合った女の子が、記憶についての新しい薬を研究していた事を思い出した。今の薬の粒、は、大きすぎる。だから脳の奥深くまでは入らない。これを微生物を使って薬の要素の遺伝子を組み換えさせて、入って効くくらいのミクロサイズの粒にしようとしている。でも、こないだの実験だと、どうしてだか、微生物があんまりまちがえなかった。だから、新しい遺伝子の組み合わせがほとんど生まれなかった。何か微生物たちにとって、間違えにくい環境だったんでしょうね。それから、脳の写真の各部を指して、「まだわからないことばかり。昔の記憶は脳の深いところにある、とか、最終的に、抽象的な言葉になりますね。」 しかし記憶喪失の美しさとは、何であろうか。自分から名乗りを挙げられるほど、勇気を持っていないけれど。死は受け入れられそうなのに。でもそれはもっと微睡に似てはいないか。本当の生に近づくのではないか。そして霧散していき、どこにもしまっておけない記憶それ自体の美しさ。二つは離れていく。 そして、自分がなぜそこにいたかを思い出した。トラブル対処のために、2010年代の一人生を、ここで、思い返していたのだった。その作業に途中で多くの自らの罪過と不義理に耐えきれなくなり、友人の一人に宛てて、2018年の信仰告白を数段落書いたのである。 −その決断をしたことで、文学や哲学を、全く別の回路を通し、読むことができるようになった。ある種の宗教は周知の通り、保守的な制度と結びついている。 しかし、このままでは、結局、宗教というものを一つも知らずに終わるだろう。何かを一つ信仰する事で、むしろ逆に、初めて、さまざまな信仰心というもの全てを、理解することができるのだ、と思った。私たち(日本人)の場合はあえて、はっきりと、何かしらの信仰を持つべきだ。そして、人の中から抜け出、神(それはつまり、広がり続ける最上性。それは私や君の心の範囲次第の神)と自分とだけをたまには見つめ、その時間を含んだ心の変化を観察すべきなのだ。なぜなら我々は必ず死ぬのであるが、、、、、---- --これ以上が思い出せない。こないだ__に聞かれた時も思い出せなかった。なぜ、私は、永遠性をあの時そんなに求めたんだろうか?ー それは気付いたら 目覚めてしまう夢に似ていた。ベトナムの湿度が(引き起こしている)に違いなかった。波動、でも、磁場、でもなく湿度。湿度という地的な現象に精神は(緻密に)織り込まれて、それが人の肌に触れる時、心にまで浸透するのだ。 家に帰ると、3ヶ月前のメールが現れ、それがローディング中...になりながら、どんどん沈み込んでいくのだった。 何も変わっていない部屋。 ベトナムを知らない思想。 この3ヶ月の旅の重さを感じた。 ___は、振り込みながら、これが終わったら、コレが愛なのか、欲望なのか、それともカルマの解消なのか、考えなくてはいけない、と思った。 <辛口ジョーンのひとこと> 「がんばる」といっておいてそれで終わりにするのは悪いクセよ。いまに甘んじてないで、自分と戦う努力を続けなさい! 実際は非誠実に非誠実を上塗りしているように見える、というのも、わたしは誠実さによって、自分の人生を切り開こうとしていたからである。その根底には私の偽善がもちろんあり、あいつにとっては知ったことではないだろう。 大いなる聖白同胞団のある組織に受け入れられた弟子に禁欲生活が要求されているということは、創造的な諸エネルギーを蓄えておき、それらを性器から心臓と頭脳のある中枢に回すことが必要なためである。 感覚の恍惚は情欲の成就であり、魂の恍惚は慈悲の果実である。 このテーゼにのっとると、私が教会で至った境地さえ、情欲の成就、しかも一方的な、に過ぎなかった。 背中辺りの肉付きのことを考えた。その後眠ってしまった。 女の子は蟹座。 死んだ人が助けてくれる 21世紀を生きる子どもたちに、冒険の魅力を届け、挑戦する勇気を与える鮮烈で斬新な冒険小説の登場 あの子が手に入ったら、私が完璧になる、なんて、確かにそれは、いつもの発想なのだ。 君のことがすごく好きだ。君と遊んでいると、時間にそこで、止まって欲しいと思う。君が転ぶフリをして、私の左甲の上を握ってくれた時(これを三人称で書いたらどうか?全部)、これまで赤ん坊の頃からの、全ての生きてきた痛み、傷、固まってしまった部分が剥がれて、初めて本当の皮膚を持ち、誰かと触れられる物になれた気がした。 六ヶ月インプットするものが何もなかった。すでに記憶に刻みつけた何枚かの写真は、もはや刻む凹凸を失い、面状の虚無と化していた。私は生きるために、自分であるために、何か新しいものが必要だった。それはセロトニンと、オキシトシンだったと思いたい、6ヶ月前に撮った写真を元に、絵を描いた。数時間、デッサンだけで、まるで(全然タイプではなかった)「麗子像」のような重量感ー本来の____は帯びていないもの、しか現せなかった私は、仕舞いにはお手本用に写真を出していたパソコンそのものに紙を押しつけ、モニターの光の強さを最大にして、見える線をしばらくなぞり続けた。 それは切なく、馬鹿らしく、正直で、楽しい一人遊びだった。しかし紙を剥がすと自分が描いているものは、全く違うものに化していることがわかった。いつか上手く行くと信じ、私の手で作り出せると信じ、それを何度も繰り返した。その度に「違うもの」はビリビリに破られ、丸めて積み重なっていった。一方で、幸せでもあった。やはりその輪郭、その光の軌跡は神の奇跡の産物であり、なぞることにさえ、御技がいるのだ。 「絵」に失敗した私は、しばらく呆然として、椅子を揺らして、smoothie 3Dで、微笑んでいる写真を3D化し、3Dプリントすれば、人の形をした何か---人形ーができるのでは無いかと考えた。しかし、なんの知識もない私にとって写真をうまく立体的にするのは難しかった。ようやく__顔の全ての線をトレースし終わり、立体的な全体像を見ようと、カメラの視点を上方からに変えると、まるで実験に失敗した人工生物の断片が無造作に並んでいるからのようなモノが見えた。 ___の微笑む顔の断片。__の様々な体の部分の色でできた、奇妙に膨らんだあと切断されたようなコマ切れの罪のないオブジェ..球のような光沢のある粒がいくつかあり、それは目玉をなぞって立体化したものだということがわかった。失敗の結果としか考えられない、作った記憶のない別の立方体には、街頭の巨大モニターのように、女の子のはにかんだ唇が欠損させられず、表彰されていた。私は自分の胸が苦しくなるのを、それがエロティックな興奮であることを認識した。それはアドレナリンだった。 客観視して見る。それはシュルレアリストの作品のように不条理な美しさがあった。 一つの肉片を引き伸ばしてみた。___の像が歪み、それは転生でもしたかのような変貌で、角が立ったマーブル柄の鉱石のように固くなった。乳白色であることだけは残して。 三角錐のイメージの中で、BGMをつけて、延々と、CGの世界の中を動きまくっていた。カメラの角度を変え、急にズーム、計算された環境光の柔らかさが見えるくらいズームアウト。ドリーミーな、現実感覚を付与する為にノイズで汚された粒子の集合の錯覚。...錯覚。(CGのいろ)ここはとっても楽しいけど、何処なのだろうか? いつの間にか、筒状の穴の入り口にいた。中身があると思っていたCGの立体は、実はハリボテの皮にすぎず、その皮すらも突き抜けて、入り込めるのだった。 その狭くて少し暗い、表面のグラデーションの裏地で彩られた道を辿っていった。それは体の中であると言うことには気付いていた。それは、幸福だった。天井に「穴」が空いていたのか、光が少しだけ差し込んでいる場所で、突き当たりになった。手探りに、方向転換をしていると、子供の頃の日曜日の朝、毛布の中を洞窟のようにして、子供たちだけで遊んでいた時目に飛び込んできた光が、瞬間的に現れた。 玄関の招き猫がばらばらだったので、一家離散しないように近くにくっつけて置き直す、子供みたいな心理。 猫が絶対に勝てるわけはないのだ。でも猫は、逃げられるかもしれない。子供の頃、「鬼」が来ても、洪水になっても、倒して、泳いで、生き残れると思っていた。もし猫がそれをできると200パーセント信じれば。もし猫が使われていない脳の力を全て開放すれば。猫は猫殺しを倒せるかも。でもそれよりもっと確実なのは、人間である我々の中で、シンジケート、昇天川デス・スクワッドを結成することだ。なぜなら人間である我々は、例え我々が子供であろうとも、猫VS人間よりは、まだ可能性があるからである。その純粋な気持ち。小さいもの、弱いもの、傷つきやすいものを守りたいという。その不純な熱意。守ることによって、何か失ったものを、取り戻そうとしているに違いないけど。もう分析はやめておこう。みんな眠っているのだから。景気の後退が長引き、中産階級が底から抜け落ち始めている今、必要なのは夢を見る事ではない。真実を見て立ち上がる事にある。禅僧が言ってた、「死んだ猫になりたい」とーー |
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September 2024
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