明けましておめでとうございます。 突然ですが、 新しいウェブサイトができました🧩 NEW OFFICIAL WEBSITE ▷https://yoknahasegawa.com/ (デザイン:山井隆介 DESIGNED BY RYUSUKE YAMAI) ドメインはシンプルに、yokna~(名前).comにしました。 前々から、Central Gameというサイト名にしているからか、Googleでやっても一ページ目にも上がって来ない..と感じていたのですが、それと関係があるのかないのか、11月頃から山井君が実験的にポートフォリオを作り始めてくれて、あれよあれよという間に集大成的なページを作ってくれました。 図鑑的に、Yokna Patofa〜長谷川億名(2005〜2023)という名義で作ったものが集めてあります。 山井くんのアイディアで、映画、映像、写真、テキスト、MIXTAPE、などなどその時々の興味で色々やってきたことを、年代順ではないルールで並列させました。それぞれのページに作品説明があります。 こうやってみると、不思議な線形を描いて不時着しているようなものばかり、・・・ Central Gameという名称もcentralgame.orgというドメインも気に入っているので、Webサイトをファサード〜本館、こっち(Central Game)を奥の間的にしておき、ブログはその分これまでよりも自由に、引き続きここで書いていくつもりです。 あと自分は匿名交流のコンセプトは好きなのですが、twitter,FB,IGといった大手SNSが好きではなく、恐る恐る現実の延長とか広告的にしか使えないため、結果やらなくなっています。ゴミになるか宝物になるか紙一重だけど手紙や写真やタブロイドの束がなぜか好きです。 いわゆる"メタバース"も、好きなはずなのですが、自分が夢見ていたぼやぼやしたものに勝手に名前をつけられ、強要的なまでに販促されているものに身を任せたくない・・。 ただもちろんウェルメイドなシステムを利用して反則的な冒険をする人たちはいるので興味はあります。 多分もっと瞑想的だったり体ぐるみの圧倒的体験を待っているのだと思う。 奥浩哉の「01」という漫画みたいに、またはジョンCリリーのタンク✖️テクノロジーみたいに、かつ安っぽくない、「物凄いゲームセンター」みたいな体験施設で全世界ゲームができて、しかも死んだ人も学習されているのでその中で色々な時代のアバターと再会できて、しかも自分にそのゲームの天才的才能があったらいいのになぁ...と常々夢想していますが、今生まれてくる子供達にとっては不完全性も含めて、自分の世代の8bitゲームみたいな異世界ノスタルジアの形成場になるのだろうからそれは面白い。脳に接続するのとか今やりたいかと言われると、まだ自然も完全には無くなっていないし、火星にいる人と抱き合いたいわけでもなく、自分には間に合っているのだが、そのうち「人間的に生きるためにそれが」必要な時代も来るのかもしれない。GibsonのBURNING CHROMEのショートストーリーみたいに「世界」を「想像」してそこでみんなを遊ばせるだけでスターアーティストになる時代とか、自分なりにも描いてみたい。でもいずれにしても「娯楽」」は餌でしかなくて、色々な経路も、タネが宇宙移動をするための人や接触のデジタル化に行き着くのだろうと思っています。でもそういった銀河もいつかは別の銀河と一緒になって...と考えていくと、目の前のいまこの時の地球に惹きつけられている一瞬は、決してゴミではないなぁと逆に思うのです。 ▷yoknahasegawa.com ------- 最近は熱を出し、全身を針で刺されるような痛みを感じたが、体温もほどほどだったので、薬を飲まずにそのまま耐えていたらありがたいことに一日で平熱になった。急いでいる時、手に負えない時は西洋の薬が心強いけれど、余裕があるときはなるべく体に戦わせるようにしている。しかし、あのまま熱が下がらなかったとしたら相当辛く、不安だろう、と思う。 一応一週間は家の中にいて、出汁からちゃんと取って作ってもらったおかゆやカロリーメイトゼリーをいただいて、日頃の自分の内外での仕事の心を反省したりしていました。 痛みでうなされていた時に、「このままだったとしたら、何がわが人生の悔いか?」というのを無意識に考えていた。その時に浮かんだのが自分でも意外だったのだが、短歌だった。「せっかく作ったのに、誰にも読んでもらえないのが残念。自分で愛唱できるものを全然作れていなくて悔しい」という純粋すぎる訴えが苦しみとは全然関係ない透明な領域に、繰り返し繰り返し回帰してくるのだった。実は一昨年に一度、添削をしてもらっていたことがあったが、全く数を作ることができず、やめたきりになっていた。 それもあって二日目以降は短歌の本をベッド上で読んでいた。二冊目に、現代短歌界の重要人物、穂村弘の『短歌という爆弾』を読んだ。皆が通るものを通りたくないと思いこれまであえて避けていた、が、この本で今の自分がアクセスできるものは非常に多かった...。本だけど、パソコン通信やファックスなどさまざまなメディアを駆使していてその時代感も面白い。そして、一章丸々取り上げられている早坂類という凄い詩人、歌人のことを私はこれまで全然知らなかった。 早坂の歌を、特にキンドル版の『ヘヴンリー・ブルー』で顕著だったのだけれど、「日本語の一行自由詩」として読んでしまった。そんなものがあるかわからないけど。七五調は日本語の美しさ、日本語の遠い記憶、のように奥で揺れているだけのような気がした。凄まじい歌は歴史上沢山あるけど、それらは全部「短歌」の仲間で、それが救いでもある。でも、早坂の場合はそこからすごくはずれていると思った。生きている人間が歌っているものと思えなかった。ページをめくるたび、一行が生々しくしかし美しい誰かの魂のように現れて、その周囲は救い難いほど深い深い淵になっていた。 子供の頃、プールの近くに大きな本屋さんがあったので、そこである詩と写真の載っている文庫シリーズを見つけて、毎週土曜日に一冊ずつ買っていた。私がスイミングスクールをやめても母と弟についていって、弟が教室に通っている間、私は車の後ろで寝転んで本を読んでいた。昼下がりの1時間くらいだったろうに、なぜかものすごく退屈な記憶、耐えられないほど長い長い時を過ごした感覚が残っている。そして気づいたら夕暮れが取り返しがつかないほど近くに来ている。これがまた辛い気持ちになるのだった。帰り道、小さかった弟が、母が、車の中で、毎週、どんな話をしていたのか。どんな様子だったのか。全く覚えていない。「ふざけていた」とか「ちょこんと座っていた」とかそういうのも。「いつもどんな風だったんだっけ?」。今なぜかその忘却をものすごく悲しく思う。とても思い出したいと。プールにアイスの自販機があって、それを食べていたかもと想像してみる。カラスも飛んでいたかも。砂利道では車は揺れていたかも。 その頃の詩と世界の混ざった、なんとも言えない主観的な感覚を思い出したのだけど、もっと鮮明に目の当たりにでき、さらに体を失った言葉の無間地獄にあるような魂のリフレイン性や、かと思えばシティポップのような「トレンディ」な時代の空気感を生きている一人ひとりの人生が透視できてとても好きだ。 短歌資料用写真。シーラカンスは美しいな。名が。骨格が。みんなも演出の仕方をわかっていて、深海の色にいつも取り巻かれている。
短歌を作っているときはきれいな画像が結構集まる。3枚目はレメディオス・バロ。Vesselのアルバム、『Queen Of Golden Dogs』や ピンチョンの『49の叫び』など、好きな作品のモチーフになっているので気になる存在です。やはり「隠されているもの」に一番萌えてしまいます。「この人絶対タロット作ってるな」と思ったら、やはりあった。バロのタロットをただ引いて眺めているだけでも、すごくインスピレーションがあって良さそうなのですが...。 あと前々回くらいに書いた「核融合」ですが、先日アメリカで実験成功してましたね.....。 なんだか象徴的な名称で時代を感じます。 今度会うときにはおじさんにまた聞いてみたいです。
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Author▷TĚLOPLAN『THE PAPER』《恬静 IDYLLIC DRIFTERS ISSUE》での細倉真弓さんとの対談 Archives
April 2023
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