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ジョルダーノ・ブルーノの既刊書  と記憶する人への個人的偏愛        記憶屋列伝 1

2/19/2023

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出版社の東信堂は、ジョルダーノ・ブルーノ全集の売り切れ状態になっている書籍に関して、デジタル化の準備を進めているそうです。これから刊行される本も含め、その重要な思想が広まることを望む。

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ジョルダーノ・ブルーノについては長らく漠然と、天動説と地動説がぶつかる時代に、地動説を唱えた何人かの中の一人、しかし最初の方の一人で、自説を覆さず、そのために火刑に処された人...、といううろ覚えの記憶しかなかった。

科学の本を読んでいても、コペルニクス、ガリレオ・ガリレイは出てくるが、彼は出てこない。しかし先日、ふと思い立ってその辺の流れで「あの、自説を覆さなかった人は誰だっけ」と調べ始めていたところ、気づくと「聖灰日の晩餐」に私も参加しており、その喜劇と真理の旅の中、一気にその思想を敬愛してしまっていた。『聖灰日の晩餐』は、
戯曲形式で、異端の嫌疑をかけられ、イタリアから放浪してイギリスに来たブルーノが、惑星や宇宙は真実どんなふうに存在して動いているのかについてイギリスの"知識人"との問答対決を行い*、ギャグ用の、話を落とす人がいたりして、(「取るに足らない人」というような名称だけど、飄々ともしていてちょっと道化師っぽい。)笑えるところも沢山ある。ヒューマニズム的な人間性と、宇宙性(地球上の自然はまた別の位置付けになるのか)と言うかけ離れたものが、彼によって結びつくような感じがした。そして、その後も色々読みたいと思ったのだが、岩波でも一冊しか出ておらずそれも絶版というのに驚いた。

*これについて後述するフランセス・イエイツは、『
ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』ではこう書いている
「このロンドン散策は虚構のもので、作中の晩餐会は当時ブルーノが奇寓していたフランス大使館で行われたのではないだろうか。コペルニクスの天体理論は本当にこの哲学談義の主題なのだろうか。それとも何かがこの理論によって暗示されていたのではないだろうか。」 

しかし一方で、唯一ブルーノの本を現在進行形で出している出版社があり、しかも全集。ネット検索すると、復刊ドットコムでの声とか、「ありがたい出版社」と感謝の声もあり、同時に代表作と言われている本など絶版でかなりの高値だったので、その出版社の東信堂様に、破れた本でもいいので定価で買えないか、あるいは再版を考えていらっしゃったりしないか、そして
ファンレター的な意味も含め、全集をとても楽しみにしているとメールを送らせていただいた。
するとお返事があり、なんと、現在売り切れになってしまった本のデジタル化を進めている、それはニュースのページでお知らせされるとのこと。
そしてさらに、『英雄的狂気』が売り切れになってしまったかと思っていたが一冊あり、帯が破れていたのでそれを取り寄せて、架け替えて送っていただき...
非常に感動しました。


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ブルーノについて調べている時、こちらのサイトを拝読させていただきました。

http://saiki.cocolog-nifty.com/shoka/2008/11/post-905b.html
​"神は無限の中に、無限を通して我々に感じられるのです。どういうことかというと、我々は無限を知ることはできないが、無限は有限との切点において、その有限の中に無限自身を映す"


ブルーノは科学者というよりカトリックの修道士で、哲学者と紹介されている。
同じく神を考えることで宇宙を考えた人にクザーヌスがいるけれど、その二人の考え方の違いなど勉強になりました。
クザーヌスは、神は無限であり、宇宙は有限であり無限を知ることができないと、
しかしブルーノは、有限と無限との接触点に、自然が、宇宙があるのだと、そしてそれらを通して無限を見ることができると


http://editus.co.jp/BG_II/j_shimizu.html

https://www.kousakusha.co.jp/NEWS/weekly20100518.html

http://editus.co.jp/BG_II/j_shimizu.html​

コペルニクスも太陽を中心にしたネオプラトニズムの範疇から逃れられなかったが、ブルーノは宇宙には中心はなく、逆に言えば何処でも中心になりうると当時考えた。現代の宇宙もこのように考えられている。ガリレイが宇宙を望遠鏡で見たのは1609年(広〜くみよう、ガリレオガリレイ で覚えている)ブルーノは1600年2月17日に7年の獄中での生の後、亡くなったという。説明として、幾何学的な補助線の引かれた天文図が「聖灰日」の中にもたくさんあるけれど、その論理の積み重ねで宇宙について正しい認識をしているのに本当に驚かされる。物質が介在しない不思議な視力。
宇宙が機械の力で観測されている現在、それらの図の美しさは神秘的な賭けにも感じるし、神が反映された自然への美的信頼にも感じる。

また、これも他の方も書いていらっしゃったけど、外国人に対する思想もとても示唆的。「聖灰日」でイギリスの人たちが外国人であるブルーノらに街で暴力をふるうシーンがあるのだが、ブルーノの結論は「イタリア人はこうじゃない。外国人にとてもおおらかです」と。それがイギリスやイタリアだけじゃなく現代の情勢に刺さる感じがある。


そう言うわけで、やっときちんと知ることができたブルーノだったが、実は記憶術のことを調べていたときに読んでいた文章に何度も出てきていたことに気づく。こないだ高野山で得度を受けたお坊さんでもある優子ちゃんとも話したけれど、空海はある言葉を何度も唱える修行をして記憶力を高めたという。最近サンスクリット話者たちの灰白質が発達しているという記事を読んだので、空海がやったのはそういうことではないかと思っている。ブルーノはのちに投獄されたことからも明らかなように、教会から見て問題のある人だった。彼の中にあったものは焼き捨てられなければならなかった。ただ、放浪していたことが功を奏し、外国での著作が今の時代に遺っている。そしてその内容は驚くべきものだ。だから、彼を知ることで、失われたと思われている叡智に近づくことにもなるのかもしれないと言う期待があるし、全集も、まだまだこれからの刊行も多いけど全部読みたいなぁと思う。
またフランセス・A・イエイツという研究者の『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』-
を工作舎が出している。(
『記憶術』も)ブルーノの場合、研究者も静かに熱い人が多い気がして応援したくなる。
フランセス・イエイツが結論をどこに置いているかまだ読めていないのだが、タイトルやレビューなどから感じるものがあり、かなり楽しみ。

*追記:今読んでいるのだが、イエイツの本で、どうやらブルーノが(自由主義的な人なだけではなく、)「ガチな人」だと言うのがわかった...ハッキリいうと、キリスト教の世界において、ヘルメス教(キリスト教が滅ぼしたはずの自然崇拝的なエジプト宗教)の復興を考えていた人。そしてルネッサンス期の魔術師。でもそれでも太陽信仰になるはずなので、宇宙に中心はない、という彼の考え方がどの辺から来るのかはまだわからない。
古代神学の流れについてこれまでピタゴラス派とか話題に出たことはあったが、全然興味を持ててなかった。真理だと思えなかった。しかし、ブルーノほどの人の考えとなると、俄然.........

プラトンを三人目の古代宗教の伝達者と、宗教的に捉えるのはなるほどと思った。確かに哲学と言われているから哲学と思ってきたけど、神から伝えられた世界の真理という時、イデアや洞窟の比喩ほど納得できて、ヒューマン的でなく(掟とかはヒューマンぽい)、どこから来たのかと思う考え方はない。

しかし当時、キリスト教全盛期の中で、ヘルメス教が知識人の中で流行っていたというのはどんな感じなのか、何が動機なのか(デモニズム的な操作願望なのか...それとも真理の追求なのか...)まだイメージが掴めない。しかし今よりも魔術というものが生きていた時代であったことはわかる(し、ニューヨークとか行くと普通にナチュラル志向のものも取り揃えた魔女用のショップとかがあってすごい混んでるから西洋の伝統なんだろうけど)

色々検索して見つけた凄く勉強になるサイト...
https://bh001.sakura.ne.jp/cosmologia.html



私は具体的な意味での記憶というものにとても興味があって、自分の作った映画全部、記憶が色々な形で使われているし、映画(シネフィルの大量記憶、映画鑑賞の曖昧な記憶)、短歌自体や、歌人の記憶、稗田阿礼、ギブスンのJohnny Mnemonic、Sarah KaneのCleansed(ボディメモリー)、DNA自体、(空海、阿頼耶識、、ボルヘスっぽい感じ、タロットのシステム)...に惹かれるのもそれで、特に自分のものでない記憶を大量に詰め込んでいる人に、ものすごく興味がある。ギブスンはおそらく、コンピューターの時代だったので、それを肉体化したキャラクターが生まれたのだろうけど、この時代に改めて読んでも(個人的に)魅力的な内省をしており(I'd spend most of my life as a blind receptacle / how hollow / sat and sang other peopple's knowledge, synthetic languages I'd never understand for three hours..、I'm a very technical boy. )それが、他の人もそうなのか、自分独特の何かなのか、よくわからない。アンドロイドやビッグデータもいいけど、Johnnyの場合はデータセキュリティ関係のキャラクターでスタンドアローンで「この頭しかない」のがグッとくるし、阿礼も全部話さないと(歌わないと)いけないというのが、大量の記憶と比べて肉体的な限界とかフラジャイルさ、また希少性があることが好きなのかもしれない。

ある人たちが、まるで無限のように記憶をできるとして、それは記憶することで聖域に、「無限」に触れる能力があるとも言え、
記憶する力自体、与えられたもので、自分ではコントロール不可そうでも、誰でも努力次第で持てそうでもある。
そして人類とか生命とか宇宙の創世単位で多くのことを忘れているはずという気持ち、感情がそれらの魅力の前提としてある。(だから阿礼なんかは思い出す欲望と世界創造が直接繋がってる)

阿礼の場合は、私は、何度説明を読んでも、なぜ古事記の編纂プロセスで彼女の「記憶する」「思い出す」役割が必要だったのかが理解できない。しかしそのミステリーにとても惹かれるし、「記憶の聖性が重要視されていて、人の体を一度通した記憶を、思い出すことが必要だった」ということであったらすごくいいのになとも思う。


多分これもフランセス・イエイツの話だったと思うのだけど、記憶のための劇場について知った時、また高い記憶力を持つ人たちがそんなふうに場所とリンクして記憶しているということを読んだ時など、その場所は何処にあるんだろう、現実の空間に物としてあるとしても記憶のインデックスと一致してるってなんなんだろうという気持ちにさせられた。他にも記憶については色々感じることがあるけど特にバシッとした答えもなく、取り留めもなくなってしまう。ただそのうち何かまとめてみたい。


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コロナで何処へも行けなかった時、家で山井君とシモーヌ・ヴェイユの『科学について』の読書会をしていた。本をコピーし、ページを割り、毎回担当を交代して担当者が全部わからないところを調べてくる、という形でやっていた。
しかし、途中で話の内容が確率についての記述に入って、これは数学の知識がないとヴェイユが言っていることが正しいのか自体がわからないなと思い、結局4回くらいで止まったままになっている。
結果、その時勉強したほとんど具体的なことは忘れてしまっているが、それでも量子論批判という今では誰も言わないし発想もしないであろう考えの大きな価値、太陽と影と人とか梃子とかダンスとか、幾何学的な色々なイメージと語り方を遠い記憶のように覚えている、(今度カルロロヴェッリがそのままのタイトルの本のKindleが出る*訂正 3/9)アナクシマンドロスという名前とか、その人の、ー翻訳が良い感じに謎めいていただけなのかもしれないがー贖いあうために動きつづける世界という把握、ギリシア時代の、世界の美と調和を見出すために存在した幾何学の感触。ヴェイユの、厳密な論理とポエジーの融合した冷たくて熱い言葉は官能的ですらあった。そしてそれがなかったら自分は数学にも全く目を向けなかったし、別にそれでいいと思っていた。
真弓さんとこないだお話しした時に読書会をしようということになって、たとえばたった一回で終わるとしても、きっとそれは何かになるだろうと思った。それが「(最近別の方に言われた言葉)売れるかどうかなんてわからないけどさ」、
 
それはそうでも、これを書いていて、『科学について』もこの後きちんとまた読むつもりになった。
科学の信仰以来、多くのことが可能になったが、同時にその狂信により、多くの可能性が傍に追いやられ忘れられている。

ヴェイユについて、もう一つ、多分『神を待ち望む』だったかと思うんだけど、もしかしたら『科学について』だったかもしれない。とにかくヴェイユの書いた文章と、同じ時に読んでいた、オルダス・ハクスリーの『永遠の哲学 The Perenial Philosophy(1945)』(古今東西の神秘主義者の思想を引用抜粋し、神的な実在を認識した人間の思想を研究した)の中に、共通する箇所が偶然には過ぎるほどハッキリあった。本人の記述の部分で、行単位だが、ほとんど同じ文面(思想的結論)もあったと思う。でも、年代を照らし合わせても、ヴェイユは1943年に亡くなっていて、1947年に初めて本が出版されているらしい。国も違い、ヴェイユは無名だったはずでもあり、どちらかがどちらかのノートや本を読む可能性は皆無に等しかった。読者も違うだろうし、誰か気づいている人は他にいるだろうかとQuoraで聞いてみたところ、"戦争と西洋思想の限界の時代"という回答をもらった。『科学について』にあるような人間らしさや美と切り離された科学の暴走が、一段と激しくなってくる時代だったのだろう。確かに似ている部分の内容的にもそうだったので、そうなのだろうとそのまま納得した。
二人は同時代に、博識ゆえに何冊も同じ本を読んでいて、同じ問題意識と結論を別々の国で持っていた。しかもそれらは全体としては全く違う方向の著作物を二人に書かせた。ヴェイユは原因不明の激しい頭痛に悩まされていた。ハクスリーは極度の弱視が治り、薬物も含めた意識の神秘主義的な探究へと向かった。今はインターネットがあるし、こういったことは大して不思議でもない。むしろこれからは、前時代の人のように、ジョニーのように、いかに切り離された記憶でいるか、が大事な気がする。意識すら覗かれるあるいは操作される時代が近いかすでに来ている。それでも繋がる時代精神の方に、巨大な記憶の存在を感じ、興味がある。


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