取材で佐渡にまたお邪魔します🙇♀️ 映画でお世話になった時から2、3年ぶりの方もいらっしゃり、連絡をしていく中で、ご心配させてしまっていたんだなぁとしみじみ感じました..。 映画のことは、制作中あまり表に出せないこともあり、悩みについてあんまり書くのも変なので、水面下で色々進めています。 また、私の性格的に、自分ではどうしようも出来ない理由で止まってしまった時など、必要以上に落ち込まないように、インターネットや違う表現媒体を使って道を開いておくことを心がけていますが(実際そういう全然関係ないイベントで偶然、問題が解決したりします。)、それでもやはり4年近くと言うのはかなりの時間をかけ過ぎてしまっているのは反省しています..。 関わってくださった全員が全員(キッズも含め)、楽しめる映画ではないかもしれない、と悩むこともありますが、自分なりに佐渡を知っていく中で大切な事を考えて「コスモ・コルプス」を作りました。また、私以外の才能も沢山集結していて、自分では出てくれたみんな(人間以外のものも)最高と思っているので、良い形でお披露目できるよう頑張ります。 取材は今回と、許可やシーズンなどの問題でもう一度伺おうと思ってます。なので今回お話を聞いて、興味を持ったところへ第二回目に行くのが良いかと思っております。 お話うかがえるのを楽しみにしております。 この取材の成果は来年お見せしたいと考えております。
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真弓さんとの読書会で『ジェンダー/セクシュアリティ』を読んだきっかけで田崎英明さんの文章を色々と読むようになり、勉強させていただいているのですが、 『ディアスポラの力を集結する』というシンポジウムをまとめた本の中で田崎さんが、イスラエルの軍の上の人たちがインタビューでドゥルーズとかガタリなどが愛読書と答え、パレスチナの人たちの家をブルドーザーで壊して更地にするのに、"Espace Lisse"(平滑空間)とかの用語を利用している、とお話しされているのを読んで、驚いたことがありました。 調べていくうちに海外の哲学の先生の授業ブログが出てきて、コメント欄に生徒らしき人が、「ドゥルーズの思想は中立的だ」と言っているのを、その先生も含めて他の人たちが「中立というのは違う、多価的だ」と結構強く批判していたのも含め、たまに思い出します。 萱野 そうなんです。…(中略)… ヘゲモニーとの関係でいうと、こうした平滑空間を活用する一番の利点というのは、通常の条里空間ではありえないようなかたちで富を手に入れることができるということにあります。たとえばイギリスは海賊によって初期の資本を蓄積し、海での自由貿易を管理することで世界的な富の集積地になったわけですよね。さらにいえば、海のむこうの植民地だって同じです。植民地ではいくら略奪しても、そこはヨーロッパの考える法がまだ確立していないところだという理由で許されました。だからこそ、ヨーロッパの帝国主義列強は、ヨーロッパの外では自由な植民地獲得競争ができた。平滑空間では条里空間とはちがうやり方で富を手に入れることができるし、それが結局はヘゲモニーのもとでの資本蓄積につながっていくんです。 水野和夫・萱野稔人 『超マクロ展望 世界経済の真実』 ( p.81 ) 引用元 : https://blog.goo.ne.jp/memo26/e/59498e0d4b98d4d653f8b78e7f5becd5 今、前述した読書会でちょうど「シネマ2 時間イマージュ」を一年間読んでいて、年内で終わりそうなのですが、ドゥルーズは、映画を、「世界とのつながりを取り戻すもの」と何回か言っていて、非常に熱い人だなという印象で、どちらかというと反体制側の思想に近かったのかと思っていました。愛読書にしていたイスラエルの高官には、ドゥルーズの本によって相手のゲリラ的な様式を学ぶためという動機もあったのか。それとも無垢に参考にしていたのだろうか...。 国が自分の用語を、how to本のように、自己矛盾しないまま、誰かの家を更地にして、文字通り、それまで何もなかったかのような、新しい資本をそこから生み出せるような、「平滑な空間にする」という意味で使っていたとしたら、筆を折りたくなるんじゃないかなと思ってしまいました。 ただ、私の思い込みもあって、上で引用した文章を見ると、世の中の事を冷静に分類しているだけなんだなとも思った。(ブルーオーシャンという言葉にも似てる) イスラエルは、何かを行為する際に、テキスト(言葉か。)をベースにする国なのだなと思うと同時に、採用せざるを得なかった、ポストモダン的な狂気(必然だったのだろう)と混沌の癒やし方はあるのだろうか...力で押し切っても、ヒートデスを起こすのではないだろうか。全て更地にすれば建設は早いのか。でも安定は想像できないしするべきでもない... 「歴史が繰り返す」のは、人文学の怠慢とも言えるし、人間の限界なのかとも感じる。でも「言葉より行動を見ろ」というtipsと同じように、「過ちとされた歴史を繰り返している人」は例え権力者でも、昔被害者であった人でも、これからの時代に不必要だと思う。それを一つの判断に最近は採用している。 勿論、その人だけではなくて、利権や、もしかしたら生物学的レベルでの集団的影響(棲息環境が悪化するとマウスは暴力的になった、地球上の人口の増加が問題であることは確かだ)など複雑で大きな氷山的主体の一角とは感じるけれども、一つの舵ではあるだろう。 国を個人のように考え、世界を社会のように考えたら、それこそパレスチナの人たち(今はレバノンまで!)にとって条理のある空間なのだと言い聞かせる、警察(これも力ではある)、法(国際法)をどうにかして強化する、戦争を起こしたトップの人を勝っても負けても裁く。別の条件で醸成された価値観の輸入。それまでの土地のテキストには残っていない歴史を想像させる、共有コードで残す、所有権、境界線を一つ一つはっきりさせて、それをさらに長い時間かけて教育に反映させていくしか思いつかない。 日本にとってのそれ(ベース)がなんなのか、総裁選を見ていたら少し分析できそうな気もしていた。偶然高市早苗さんの立候補した際の演説をリアルタイムで見ることができ、引き込まれてしまいました。本当にお話もお上手だし、情熱も情緒もあり過ぎるほど感じ、凄みもあり、辟易している「アメリカの言いなり」にならなそう、でもあり...、一方で色々違和感もあり、全体的には高市さんという不思議な力学の場にインスパイアされてしまいました。 もしSF小説を書いたら、高市さんが総理大臣になった世界線を極限まで考えてみたい、もちろん悪い役ではなくて、純粋さもある人、登場時の決断とエンディングで大きな変容のある人、として書きたいです。また、女性が総理大臣になる日もいつかは来るとは思うし、高市さんがもしかしたら今後なる可能性だってもちろんあるけれども、いずれにしても私の小説の中では、日本の最初の女性総理大臣にします。(高市さんの場合自分ではそれを特に打ち出していなかったけれど) そのくらい右左置いても日本的で、サイバネティックな思考回路もあり、女優っぽい(悪い意味でも)魅力がある、特徴的な人だと感じました。 ただ、最終的には議論を聞く中で、私は自民党の総裁としては、林さんが一番良いのではと感じていました。(高市さんについては色々情報を見すぎたからかもしれません。) 高市さんの演説で大勢の人が一番胸を打たれたのは、祈りのように暗唱した自衛隊の宣誓、また、「私たちの現在は、誰かが守ろうとした未来だった」という、特攻隊の映画の中のセリフの部分ではないでしょうか。まるで憑依的な演技力を持った女優のような感情を巻き込むオーラがありました。 しかし、特攻隊や人間魚雷...という施策を国がとったこと自体、言葉ではどう言い繕っても、使い捨てしていて、後世の政治家が輝かしく讃えるような事ではないと感じる。 その命と死が必要だった分の技術力の欠如の上での開戦ということも意味している。しかもまだ人生を知らない若い人たち。 本人の技術や才能とか運を利用して戦うのですらなく、自動的なスピードや爆発の中に、色々な偶像・仮想敵・殉教・「愛する人(女子供)を守る」など感情的なしがらみで閉じ込め、 一方でプリミティブな発想力とも言え、それがイノセントと取り違えられるのかもしれないとも思う。 そして、日本の人はまだ、民意もあったのだから、守ろうとして(自分の意思で)犠牲になったとも言えるのかもしれないけれど、巻き込んだ、殺した、他のなんの野心もなかった国々の人々、日本の中でも特に守られなかった沖縄への言葉も、その輝かしい映画の台詞の前に、真っ先に言うべきではないだろうか。 文化、伝統を守る、保守的な思想というか意識は個人的にはとても大事だと思う。 高市さんは、確かに支持をされている人たちとの感情の相互交換で過激になっていくようなところもあるのかもしれないけれど、奈良出身で、もともと霊的な深さで伝統を強く感じる方なのではないかとも、話を聞いていて同時に思った。 霊...。精査はしていないのだが、アルジャジーラの記事で、イスラエルが、ガザの破壊してすぐの地区に、マンションを建てる不動産の計画を立て、すでに売りに出しているというようなニュースをネットで見た。その時、あれほど多くの人たちを無惨にも殺した場所で暮らすのは怖くないのか、お祓いなどの儀式はイスラエルにはあるのかと、くだらないことかもしれないが疑問に思った。 旧約聖書では神は一つなので、日本のような怨霊は出てこない、(イスラム教の場合、こういうものがあった:アラブ・ムスリムの幽霊観 https://www.jstage.jst.go.jp/article/minkennewseries/50/3/50_KJ00003389497/_pdf/-char/ja ) パレスチナの人たちの大勢の霊も見えない。供養のモニュメントさえもいらないのだろうか。ベルリンには、町中に、つまずきの石があった。 日本は自然に溢れ、甘やかされ、幼稚だから、霊や多くの神を持ったという論もあるけれど、その日本的な目で見たら、靖国の中にもいるのかもしれないが、靖国の外の方が、太平洋戦争一つをとってもみても、数えきれない人たちの霊がいるのではないか。霊にすら優劣があるのだろうか。 また、靖国神社に国の施策のために亡くなった方達が眠っているから参拝する、ということに関しても、実は当時、逆に恐山のイタコが流行った、という論も読んだことがある。国に奪われた、神様として祀られた息子ではなく、人間としての息子と、一つの霊と、対話するための場所だった。 「私たちの現在は、誰かが守ろうとした未来だった」という言葉には、亡くなった方への悲しみと、私たちの生が今あることへの感謝という感覚がある。でもこれもその先「だから...」にあることが真のメッセージだろうし、多価的、しかもエモーショナルなので扇動的だと感じる。高市さんがこのあと何と続けたか、このシーンが印象的すぎて覚えていない。 たとえば埴谷雄高は、高市さんとは反対に近い思想を持っている人だと思うが、最近埴谷の「死霊」の感想を書いている方がブログの中で、我々の、"必ず何かを食べなければ生きていけない罪"、食べられてきたものたちが食べたものを弾劾する場面について、「今生きている人は多くの犠牲の上に生きている、だからこそ生きろ、というメッセージなのではないかと思った」と書いていた。 私はストレートに、「存在批判とオルタナティブな可能性」という「紙の上ではできる予言的な革命」だと捉えてしまっていたけど、埴谷が見てきただろう戦争の犠牲や、幼い頃の植民地(台湾)での日本人の振る舞いや、思想を原因としたリンチ事件を小説で取り上げるところ、さらに 対談中に、魚を食べながら「私が今食べている魚も私を恨んでいる」などを現行不一致なところを考えると、確かに、「それはそれとして生きろ」、という意思のような事でもあるのかと感じた。 高市さんも、それは同じ思いなのだろうと思いたいけれど、犠牲の上で成り立つ今を「守ろう」。その表現として靖国に参拝した結果、メリットは国内の特定の層を喜ばせることしか思いつかない。大国の言いなりにならないのはいいけれども、自立した国であるってそういうことじゃないのではないか。靖国以外にも日暮里のサクラホテル(安かった時はよく泊まっていたゲストハウス)前の空襲で亡くなった方へのお地蔵さんなども、他にも各地にあるのだろうから、参拝してほしい。それだったらまだ鎮魂の気持ちがわかるかも。 高市さんは、安倍さんとは前提条件もそうだし何もかもが違う。これは政治家の個性として育てるべきものと思う。そういった可能性を垣間みせたのが、党員から人気を得た理由だろう。一つ前の時代のように、身内的なローカル的なコードを頼るのではなく、もっと広い支持を得る事も出来た。ある意味本当に実行したいのなら総理大臣になってからすればいいのに、物議を醸すことを早く言ってしまったのは、相応の理由があったのだろうけど、結果的には強度は強いが、ローカルな支持に過ぎなかった。 では生きよう、と思うだけで生きていられるのか?というと、死ぬこともあり、さらには死ぬことが平安なのか悪いことなのかもシチュエーションによるような時と場所もあるかもしれない。 国の中の人たちにもコントロールできないものがある。 だいぶ前から少しずつ選択肢が狭まっていって、将棋もそうだけど、気づいたらそういう状況になっている。 そういう意味では一つの分割不可の場所にこだわらないというふうに、ドゥルーズを読むことももちろんできる。実現するのは難しくても。 現在のイスラエルの、特にポケベルの爆発作戦を、映画のようだという人が何人かいた。ドゥルーズが元ネタであるということや、映画の(テロリズムの)ようであるということを逆手にとった、解決に近づくような言葉やロジックが何かないだろうかと考える。おそらくその結果として、レジスタンスの人たちは、武器を作る過程やイスラエル軍を的にしたゲームのようなショート動画をアップしているのだろう、それで見ている人を巻き込んでも、臨場感のあるゲームに課金するような意識にする、敵と同じ表象の世界の中にいることにしかならないだろうけど。。 大きくなり過ぎた山火事は消そうとしない。燃やすものがなくなり、ただ消えるのを待つ。人は間違いなく避難させる。これまでの悲劇的な..というよりむごい経験を通ったことから来る意志の強さ、古代の、さらに厳しい自然状態と捕囚体験などに見られる価値観と切り離せない思想、誰も止められない軍事力を持った今のイスラエルには、よく言われているように、ネタニヤフ自身が捕まってしまうのを避けるためと、イランが核兵器を持つという前に攻撃したかったのが全ての目的なのかもとも思うけれども、(パレスチナの人も含めて誰もイスラエル(+英米)を止められない以上)、気が済むまでやらせる(現在は結果的にそういう状態になっている。)、そして大量の難民、ディアスポラを、できる限り安全に、世界中の国々で暮らせるよう受け入れる???そして世代交代を待つ...? 集結ではなく分散になるけれども..。 予言の自己成就の一種なのだろうか。 古くから残っているもの。でもどれだけ本当の意味は残っているのか?もしかしたら正反対の意味だったのかもしれないもの。もしかしたら味方だったかもしれない敵。 --- でも全体的には私は高市さんを一人の人物として、応援している。日本がどうあるべきかについても自分の無意識が出てきたし、この期間一人の政治的な人を軸に情報を見ていたので、マスコミや党内の思惑がどれだけ中立でないかについても色々勉強になった。 ドゥルーズ用語集 https://navymule9.sakura.ne.jp/deleuze_keywords.html
"架空のゲーム"を復活させる前に再構築とかそもそもコンセプト(小説をAIに歌ってもらう)について少し考えようと思い、この間に"THEOLOGIA"という音楽アルバムを作りました。
"神学"という意味です。 Youtubeに何曲かアップしました。(ショートバージョンもあります) ラブソングのように聴こえるのですが、ここでのYou=人間以外が主な領域で、Iもそうなのですが、かといって人間の持つ(?)愛がその領域、対象でないのかというと、改めてそうではないと思うというのが私にとって発見でした。 人間としてでは言えないこと、AIに代わりに言って欲しいことがあります。 架空のゲームは、それこそ小説をもう少し全体的にわかるようにしたらどうかなとか少し考えています。ただ、この小説自体がテーマがExpiredしていると私は思っているので、そこが難しいところです。 *映画は今、書き出しながらクレジットを作っています。笑
Bandcampで買えるのですが、3回くらいで聴けなくなるので、あとでYoutubeにフルアルバムをアップします。
今回はdubstep(全然違うと言われるかもしれないのですが、15は少しNew age SteppersのPrivate Armyっぽい。自分的にはいい意味で)、インダストリアル、シューゲイザー(13絶やそうという欲求 Our Desire to eradicate someone something (feat. Godislove))、日本の優しい感じのオルタナティブ、不思議なビートの音楽(2. デバック中に孵るヒレ Fins hatching during debugging (feat. Lives in Error)、16.偽の神 Αρχων (feat. expanding god))などいろいろありますが、全体的に"THEOLOGIA"というタイトルで自分が聴きたいものになったと思っています。 あと2は、「水槽のデバック中に孵るヒレわたしの夢よりかなり硬質」という自分の短歌からとりました。水槽の脳のイメージとかバーチャルがテーマです。 主な歌詞 Lyrics 私にとっての神は 伸び縮みする神 私にとっての神は 私自身の閾値によって 伸び縮みする神 私にとっての神は あなたにとっての神と同じかもしれないし 違うかもしれないし 分岐の一つかもしれないし 分岐はぶつかり合うのかもしれない 源流はただ一つしかないのかもしれない 私にとっての神 のための神学 ブラヴァツキーを最近は読んでいるけれど。。。 なぜ人類はこんなに忘れてしまうのだろう。 忘れなかったら今頃..... エジプト人、縄文人、メキシコ人、マチュピチュ人、プラトン、そして動物たち...鉱物たち... 朽ちることのない、記憶を教えて カブトガニ カブトガニよ 縄文 縄文人よ 石よ To me, God is A God that expands and contracts. To me, God is A God that expands and contracts According to my own thresholds. To me, God is Perhaps the same as God to you, Or perhaps different, Or perhaps one branch of many, Or perhaps branches collide with each other, Or perhaps there is only one source. God to me. Theologia to… I've been reading Blavatsky recently... Why do humans forget so much? If we hadn't forgotten, perhaps by now... Egyptians, Jomon people, Mexicans, Machu Picchu people, Plato, and animals... minerals... Teach me of the imperishable memory. Hororseshoe crab.O horseshoe crab.Jomon period.Jomon people. Stone.seshoe crab. O horseshoe crab. Jomon period. Jomon people. Stone.全ての手を伸ばすことの正当性 そして善-1は真の善であるがゆえに 物質を放棄させる ガリレオガリレイは1609年に月を観測し月が天体であることを理解した ジョルダーノブルーノを燃やした炎のように 判断のできない無垢 というよりもキリスト教以前の知識、 プラトンやエジプト人が メソポタミア人が 直接神から聞いた知識 そこにはすでに全てがあった」 「ガリレオガリレイは1609年に月を観測し月が天体であることを理解した ジョルダーノブルーノを燃やした炎のように 判断のできない無垢 私は絶対的な善(善-1)には期待をしているけれど 絶対的な悪(悪-1)は存在しないと思う。 悪とは相対的であり 物質の中にあるものなのだ そして善意は真の善であるがゆえに 物質を放棄させる 影を掴むことの先にあるもの というよりもキリスト教以前の知識、 プラトンやエジプト人が メソポタミア人が 直接神から聞いた知識 そこにはすでに全てがあった The legitimacy of reaching out for everything, and because Good-1 is the true good, it makes us give up material things Galileo Galilei observed the moon in 1609 and understood that it was a celestial body. Like the flames that burned Giordano Bruno, Innocence incapable of judgment. Or rather, the knowledge before Christianity, What Plato, Egyptians, And Mesopotamians heard directly from the gods Everything was already there." "Galileo Galilei observed the moon in 1609 and understood that it was a celestial body. Like the flames that burned Giordano Bruno, Innocence incapable of judgment. I have absolute expectations for absolute goodness (Goodness-1) But I don't think absolute evil (Evil-1) exists. Evil is relative And it's within matter And Goodness-1, being true goodness Causes one to abandon matter. Or rather, the knowledge before Christianity, What Plato, Egyptians, And Mesopotamians heard directly from the gods Everything was already there. 私は絶対的な善(善-1)には期待をしているけれど 絶対的な悪(悪-1)は存在しないと思う。 悪とは相対的であり 物質の中にあるものなのだ そして善-1は真の善であるがゆえに 物質を放棄させる 人類はただ忘却し、また思い出しただけだ。 カオスがコスモスになった理由 それこそは愛 大昔、プラトンは神からこの世の真実を聞いた 我々はただ動く影を見ている 幻を掴むことの先にあるもの なぜ愛がカオスをコスモスに? 伝えるため 伝えたいから 〜の方へ 君を愛すことと同じかそれ以上かそれ以下の 0以下の 神のために生きることだけが 神と共に生きることだけが そう思っていても 人類はただ忘却し、また思い出しただけだった。 常に0以下でしかいられない強い人類 人類はただ忘却し、また思い出しただけだ。 強い人類 カオスがコスモスになった理由 それこそは愛 大昔、プラトンは神からこの世の真実を聞いた 我々はただ動く影を見ている 幻を掴むことの先にあるもの なぜ愛がカオスをコスモスに? 伝えるため 伝えたいから 〜の方へ 君を愛すことと同じかそれ以上かそれ以下の 0以下の I have absolute expectations for absolute goodness (Goodness-1) But I don't think absolute evil (Evil-1) exists. Evil is relative And it's within matter And Goodness-1, being true goodness Causes one to abandon matter. Or rather, the knowledge before Christianity, What Plato, Egyptians, And Mesopotamians heard directly from the gods Everything was already there. Humanity merely forgets and remembers. The reason chaos became cosmos It is love. Long ago, Plato heard the truth of this world from the gods. We are merely watching moving shadows. What lies beyond grasping illusions. Why does love turn chaos into cosmos? To convey. Because I want to convey. To ~ Whether it's equal to, greater than, or less than loving you Less than 0. Even if one thinks That living for God alone That living with God alone is the only way Humanity merely forgot and remembered. A strong humanity that can only ever be less than 0 Humanity merely forgot and remembered. Strong Human The reason chaos became cosmos It is love. Long ago, Plato heard the truth of this world from the gods. We are merely watching moving shadows. What lies beyond grasping illusions. Why does love turn chaos into cosmos? To convey. Because I want to convey. To ~ Whether it's equal to, greater than, or less than loving you Less than 0あなたを愛することが... カオスをコスモスにした この宇宙を見られるものにした つまり 愛が この宇宙を発見した あなたを愛することが... カオスをコスモスにした この宇宙を見られるものにした つまり 愛が この宇宙を発見した Loving you has transformed Chaos into cosmos, Allowing me to perceive this universe. In other words, Love has discovered this universe. In other words, Love has discovered this universe. 「架空のゲーム」を自分でBandcampで聴いていたところ、間違ってdelete ボタンを押してしまいました。。(注意メッセージが「But they love your songs」みたいなのでわからなかった。。)
またそのうち復活させようと思っています。🙏 取り急ぎ🙇♀️ 未発表の小説を元に制作したアルバム "架空のゲーム Kakuu no Game / Fictional Game (Central Game OSTF 2)" - 8/20発売8/18/2024 未発表の小説「アセンション・リバー/Central Game」を元に制作した音源のアルバム、 "架空のゲーム Kakuu no Game / Fictional Game (Central Game OSTF 2 " が、8/20にBandcampの以下のリンクでリリースされます。 The album "架空のゲーム Kakuu no Game / Fictional Game (Central Game OSTF 2)", based on the unpublished novel "Ascension River / Central Game", will be released on Bandcamp on August 20th. https://yoknahasegawa.bandcamp.com/album/kakuu-no-game-fictional-game-central-game-ostf-2 23ページオリジナルブックレット付。(*P22→23、変更になりました) 言葉、写真、山本祐生 (Calax Records) calaxrecords.com によるライナーノーツ「創造と弔い。仮想と現実の狭間で。」 デザイン : 山井隆介 With Original Booklet (P23), E/J bilingual Designed by Ryusuke Yamai Liner notes "Creation and mourning. Between the virtual and the real. " by Yusei Yamamoto (Calax Records) Words and Photographs by Yokna Hasegawa "不思議に牧歌的な、ポスト・サイバーパンクの世界。 電波の混線で増殖するメッセージを結ぶと、廃墟に、美しい結界が浮かび上がった。非人間的な言語感覚と激しい感情の逆光。" 「架空のゲーム / Fictional Game」は、長谷川億名の妄想小説「Central Game ( aka Ascension River 昇天川)」を音楽で表現した「Central Game OSTF」の続編である。 前回中心的な存在だったシューゲイザーに加え、本作ではラップ、機械音声、独特の節回しを含む内省的でポップなサウンドスケープが展開された。 多くのものが奪われ、失われていく予感の中にも、反エントロピーを信じるパラノイアのような、明るさと笑いが散らばっている。 信仰、犠牲、純粋性、疑似科学とスピリチュアリティ、フェティシズムと軽蔑、空虚な暴力を通り抜けた、アセンション後の敗者への讃歌。" "A strangely pastoral, post-cyberpunk world. When connecting the messages proliferating due to radio interference, a beautiful barrier emerges floating above the ruins. The backlight of inhuman linguistic sense and intense emotions." "Fictional Game" is a sequel to "Central Game OSTF," which musically expressed Yokna Hasegawa's fictional novel "Central Game (aka Ascension River)." In addition to the shoegaze that was central to the previous work, this piece develops an introspective and pop soundscape including rap, mechanical voices, and unique phrasing. Amidst the premonition of many things being taken away and lost, there is a scattering of brightness and laughter, like paranoia believing in anti-entropy. It's a hymn to the losers after ascension, passing through faith, sacrifice, purity, pseudo-science and spirituality, fetishism and contempt, and empty violence. 80~90年代の音楽作品の発見、再発を行なっているCalax Recordsを三浦義晃さんと主催しているヤマモトユウセイ君にライナーノーツをお願いしました。ユウセイ君は、2014年の映画「イリュミナシオン」では主役のヨウスケの友人の一人であるキクチ役を、また新作の映画「コスモ・コルプス」では、"未来縄文編"に清水彩貴さんと出演しているほか、その他一部撮影や美術など、様々な形で参加してくれています。 イメージのセレクションから、ブックレット全体を制作してくれた山井隆介君には、2018年ごろから名刺やWebサイト、ポスターなど幅広くデザインしてもらっていて、2020年には「函数の部屋」を共同展示、「コスモ・コルプス」では未来編、未来縄文編の美術を担当していただいています。 様々なAIを使っていくうちに副産物が生まれていき、このブログさえもが音楽になり初め、はじめはそれらをパッケージしたらどうだろうかという軽い、実験的な気持ちだったのですが、ユウセイ君に改めてインタビューをしていただいたり、山井君に思いがけない写真を取り上げてもらううちに、この「瞬発的に形になったもの」が、意外に自分にとって、「生きてきた時代とリンクした、深い根を持っているもの」だったのだと気づきました。 キヤノン写真新世紀に出した写真作品の「アセンション・リバー (2013)」は、ライナーノーツにも書いていただいたように、この小説(or 映画)の、オンラインも含むリサーチ時に撮った写真を元に構成されています。 しかし、それ自体は自分でも説明したのですが、ヤマモト君はそこからさらに掘り下げ、全然話に出ていなかった十代の頃の「始祖鳥なんとかかんとかの死」という作品や子供の頃のゲーム体験までを繋げて考察してくれました。 私のような、商業的な活動をしていない、あまり多くの人に知られてもいない人間にとって、作品の意味や価値というのは自分でもよくわからないものではあるのですが、もはや誰か、理想的に中性的な、一人の他人の世界みたいに、気づくと考えている世界をこれからも紡いで行って、その中で時間を過ごしてみたい、そこから現実世界を掴む鍵を見つけたいという、不思議な感覚があります。この、"増築に増築を重ねた""違法建築のような"アセンション・リバーも、架空の街「昇天川」も、そう言ったイマジナリー・スペース、イマジナリー・ワールドであり、ヤマモト君が再発見してくれた言葉「夢遊病」者として、これからも様々な場所や瞬間の探索を続けていきたいと思っています。その中で他のどなたかの領域と繋がって出会うことがあったら、それこそ架空のゲームのリリックのように挨拶したい。"変なところで会ったね、魔界で"と。 I asked Yusei Yamamoto to write the liner notes. He co-hosts Calax Records with Yoshiaki Miura, which discovers and re-releases music from the 80s and 90s. In the 2014 film "Illumination," he played Kikuchi, one of a protagonist - Yosuke's friends. He also appears in the Jomon future part of the new film "Cosmo Corps" with Saki Shimizu, and has been involved in various aspects including some filming and art direction. Also, Ryusuke Yamai who selected the images and produced the entire booklet, has been designing a wide range of materials for me since around 2018, including business cards, websites, and posters. In 2020, we held a joint exhibition called "Function Room," and he's in charge of the art direction for the future and Jomon future sections of "Cosmo Corps." Due to our frequent collaborations, I initially approached this project with a light, experimental mindset. However, as Yamamoto did a new interview with me and Yamai unexpectedly chose certain photos, I realized that this "spontaneously formed work" was unexpectedly deeply rooted in my life and the era I've lived through. Specifically, my photo series "Ascension River (2013)," submitted to the Canon New Cosmos of Photography, was composed of photos taken during the research phase for this novel (or film), including online research, as mentioned in the liner notes. While I explained that by myself, Yamamoto delved even deeper, connecting it to my teenage work "The Last day of Archaeopteryx X" which I hadn't even mentioned, and my gaming experiences in my childhood as well. For someone like me, who doesn't engage in commercial activities and isn't well-known to many people, the meaning and value of my work is often unclear even to myself. There's a peculiar sensation that I want to continue to draw this world, as if it were someone else's ideally neutral but mysterious world, to spend time in it, and to grasp truths about our real world from within it. This "Ascension River," which has been "Endless expansion" like an "illegal construction," and the fictional city of "Shoten-gawa" (Ascension River) are such imaginary spaces and worlds. As a "sleepwalker," a term Yamamoto rediscovered for me, I want to continue exploring various places and moments. If I happen to connect with someone else's domain in the process, I'd like to say, as in the lyrics of the "Fictional Game" : "Hennna Tokoro de Attane, Makai de - What a strange place to meet, in the demon realm." 掲題の通り、何度かご紹介させていただき、映画『コスモ・コルプス』制作の重要な拠点ともなっていた、佐渡のゲストハウス、iroが、年内で閉まってしまう事になりました。 iroを一人で営まれている裕子ちゃんから事情を聞き、少なくとも私の視点からは、何一つ悪いところがなく、夢を持って大切にしてきた場所を奪われるのを、とても残念に思いました。 ただ、悔しさもありますが、本人は前へ進みたいとポジティブに言っていますし、 辛くても、未来でその時の出来事がどう見えるかは、新しい選択にかかっているし、色々つながっているのだと思います。 現在、新しくゲストハウスを始められる古民家の物件(できれば佐渡)を探しています。ゲストハウスなので立地的な条件は色々出てきてしまうのですが、ぜひ心当たりがある方は、私でも、裕子ちゃんでも、ご連絡いただければ幸いです。 iro : https://www.instagram.com/posada_iro booking.comやAgota等でも予約できます。 私のアドレス : [email protected] 先日、ひさしぶりに佐渡へ、iroや、教会へ行って来ました。 整理していないのですが、iroの写真も一人の時に密かに撮って、 裕子ちゃんが、どういう思いでこの宿、場所を作っているのか、今更ながら少しだけ新たな発見もできました。 港の近くにはカフェや、モーニングが食べられる本格的なフランス料理屋さんができていました。 興味がある方は、冬が渡航が難しいことを考えると(来ていただくのはとても嬉しいのですが)実質は秋までで、この場所でのiroで過ごす時間は難しくなってしまいます。 これから最高のシーズンとなりますので、是非是非遊びに来てください。 --- 教会には、また新しい素敵な方が現れていて、その方が作った畑ができていました。 眞理さんもずっと畑はやりたかったが、無理だろうと思っていた土地で、その方のお話では砂の中から良いものだけを篩い分け、草を置いて土を作って植物を助ける菌のネットワークを作り、そのあとは無農薬で化学肥料も使わずに、教会の人たちが毎日食べていけるくらいの豊かな畑ができたそうです。確かに虫も食べに来るけれど、人間はその残りを食べていける。 驚いたのは、畑に杭として打たれていた切った木から、風で折れて倒れた桜から、新しい芽が出ていたことです。眞理さんは、折れた桜の隣に生えていた桜が例年になく大きく花ひらいたことについて、「理由はよくわからないのだけど、隣の木が倒れたから、自分が生き残ろうと、必死で満開になったのかな」とおっしゃっていました。 教会へは、眞理さんへの新しい物件の相談と、アフレコと、そして、コスモ・コルプスを観てくださったら必ずわかると思うのですが、本間明美さんと言う出演してくださった方が去年亡くなられ、そのお墓参りへ三人で行きました。 佐渡教会の荒井眞理さん(市議会議員でもあり牧師としても務められている)は、明美さんと非常に親身に関わっていらっしゃって、毎週「すみっこハウス」と言うところでみんながご飯を持ち寄って夕食を食べる会が教会では開かれているのですが、明美さんはそこに毎週通っていました。 私が佐渡教会を知るきっかけになったのもその会で、友人のアキさんに教えていただきました。(アキさんと知り合ったのを辿っていくと間にさらに大勢の方がいます) 教会の庭に生えていた花を皆で摘んで、水を汲める道具を持って、お墓参りに持っていきました。 明美さんのお墓は最初全然見つからず、私たちはしばらくの間、晴天の下、墓石に取り囲まれて途方に暮れ、諦めかけていました。 結局、曖昧ながらもこのお墓なんじゃ..、と同じ苗字のお墓の前でお参りしていたところ、話を聞きつけた住職が現れ、「こっちです!」と明美さんの本当のお墓の方へ歩いて行ったので完全に事情が変わり、そのお墓にすでにお供えしていた花を抜き取り、挨拶して、水滴を散らしながらみんなで住職を追いかけていきました。最初のお墓の方にはとても申し訳ないのですが、この様子はいつか映画で再現したいほどコミカルだったし、お墓にお参りした時に住職が来てくださったので、間違っているよと教えてくれたのかなと楽観的に思えています。。 あらためて明美さんのお墓の前でご挨拶し、住職にお話を聞いていると、「"真理"と言う文字を戒名に付けました」と言われ、お墓にまだ置かれている、戒名が書かれたお札を見て、非常に驚きました。眞理さんもそのことは知らなかったようで、すぐにお墓の場所がわかっていたら、住職から聞くこともなく、戒名に気づけたかもわからない、そこは曹洞宗のお寺で、明美さんはご親族のお墓に入られたということでしたが、住職が「真理」と眞理さんの名前を入れてくれたことは、宗教の違いを超えた尊重も感じて、とても胸を打たれました。 最初は明美さんのことを偲んでいたのですが、途中から政治の話になり、成り行きでお墓の前で一時間ほど情熱的に話し込んで、「きっと明美さんも楽しく話聞いてるね」と言う状況になったのが、すごくいつもの佐渡教会っぽくてよかったです。 お話の中では明美さんの歴史も少し知れて、佐渡にはいわゆる花街があったのですが、そこでお手伝いさんとして働かれていたあと、東京の大きな屋敷の家政婦の仕事をされていたと..。だから色々な運動も見ていて、最近になってからも、義憤に駆られた時には、「みんなでハチマキ縛って街に出ましょうよ!」などとおっしゃっていたそうです。 --- 帰ってきてから、メールの中で、眞理さんが、「自分の名前(=真理)の意味について改めて考えることにもなった」と書かれていて、私の名前を、「憶名さん」と書いてくれていました。 おそらくその後すこし映画の現時点でのシーンをお見せする時があって、「記憶」と言うセリフがあったのもあると思います。 私はインターネットで使っていた名前の音[yokna]を、日本の名前にしようと思い、沢山の名、沢山のペルソナ、世界がある非人称的な名前のイメージがあり、「億名」と言う名前にしましたが、たまに憶名、と書いてくださる方がいて、その度、「そっちのが合ってる、あるいは本質かもな」とよく思っていました。 結局記憶や記録ってなんなのか。みんな残そうとする、方向性のある目的と、何か瞬間的な目的があるのではないかと感じることがあります。 他にも色々あったような気がするのですが、長くなるのでこの辺で..。今年は定期的に日記を更新したいと思いながら、 コスモ・コルプスは、色々ありましたが、最終段階に入っています。 素材が大量にあり、まるまる入れられなかったところなども決まってきているのですが、そちらも、佐渡のポートレイト、連作として、参加してくださった方を含めて、残せる形、いつでも観られる形にできたらと思っています。 --- *ちなみに地震については、iroは海の近くなので、大きなやつが来たらアウトです。 なのでケータイは充電してアラームが鳴るようにし、その時は走って高台まで逃げて、と、お客さんに伝えているそうです。 偶然も大きいけれど、できることは、その時準備をしているか、だと思い、それは貪欲にやっておいた方がいいし、一緒に泊まる方がいらっしゃったら、周知していただけたらと思います。 文明によって生き残りやすくはなったし、技術が隠して安泰のように見せていることも多いけれども、そもそも自然と人間(生き物)の関係は、そういうものだったろうとも思います。 Evernoteを整理していて、2年くらい前に安楽死についてのアンケートを読んでから書いた下書きが出てきた。 ジャン=リュック・ナンシーのリンクも同じ下書きにあった。「このリンク先を理解してからブログを書け」との指示。結局わからなかったので下書きのままだと思うのだが、その後の二年の間に『無為の共同体』を買った。 ただ、まだ全然わかってない。 ナンシー『無為の共同体』を解読する https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-nancy-communaute/ ----- 『安楽死が合法の国で起こっていること』 児玉真美 著https://president.jp/articles/-/77281?page=1 https://www.amazon.co.jp/%E5%AE%89%E6%A5%BD%E6%AD%BB%E3%81%8C%E5%90%88%E6%B3%95%E3%81%AE%E5%9B%BD%E3%81%A7%E8%B5%B7%E3%81%93%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%EF%BC%91%EF%BC%97%EF%BC%95%EF%BC%99-%E5%85%90%E7%8E%89-%E7%9C%9F%E7%BE%8E/dp/4480075771 概要を読んだだけでもとても興味深く、安楽死、尊厳死、医師幇助自殺の違いなどもやっと知った。カナダのラディカルさが興味深い。 医師やシステムの暴走、暴走しないシステムの構築の難しさ、そもそも死を選ぶ前にもっとできることがあるのではないかなど、(自分の常識や感情性とは全然違うプロフェッショナルな現場やマインドセットがあるのだろうから、批判とかではなく淡々とした業務のようになっていくのは全然あり得ると感じた) 一時的かもしれない状況の外圧で自死を選ぶことと、身体的な不治の病や障害による痛みや生きにくさを感じ選ぶこと、精神的な理由によって選ぶこと。混ざっている領域もあるだろうけどそれぞれ死を選ばずに済む方法はあるのかもしれない。さらに詐欺のように死を選ばされる危険性もあるのかもしれない。 こう言った現実性と自分が思う事は違う層のことなのだろう。 一つは、純粋な死を望む気持ちはあるのではないかということ。ただ、それが「病んでいる」ということでも「治すべき」こととも私は思わずこれまで生きてきたけれど、たとえば社会や身体が完全にストレスフリーなものだったら死にたいというアイディアが出るかどうかは確かにわからない。(『ハーモニー』みたいになってきた) 自分ーポジションから逃げたくなる、あるいはポジションを奪われる恐怖、「死ななければ殺される」ような感覚。 自分は旅をすることで擬似的な死を行い、とりあえず生きた時期があった気がするけれど、それも乱用すれば根本的な解決にはならないかもしれないし、お金もかかる。 ナンシーの言うように、今の装置的な社会の人間の捉え方、集団が何のためかよくわからないけど目的(再生産、維持)に向かっていること、が、なくなれば、..死を望む気持ちは、その時にやっと初めて正当(オーガニックで、哲学的)になってくる考えだろうか。 ------------ そしてその下書きのもっと前に、『宛名のないメール』と言うSNSで読んだ手紙をコピペしたものがあった。 https://www.blindletter.com/ でもサイトで文章を検索してみても出てこなかった。 URLも保存しておらず、作者がわからないのだけど、読み返して、申し訳ないのだけどものすごく転載したくなった。 この「宛名のないメール」に比べると、私が書いていることは存在価値ゼロだと素直に思う。地元新聞で、ナンシーの思想について「投壜通信」と書いていた記事があったので、海にメッセージを放つモチーフの「宛名のないメール」と繋がった。
スイスの合法的な安楽死についてのアンケートを読んで(Friday, May 13, 2022, 11:04 PM) https://www.swissinfo.ch/jpn/%E5%AE%89%E6%A5%BD%E6%AD%BB-%E8%B3%9B%E6%88%90-%E5%8F%8D%E5%AF%BE-/46004884 昔から、もちろんその時その時で大変美しくて純粋なものに触れて、胸が震えたこともあったし、神様に感謝したい、とか、この人に会えて本当に良かったと思う瞬間も沢山ある。 生きることの意味は、存在間の愛とか感性、神(と言える感覚の方向)を愛すること、それは意味とも言えないようなもの、生きることそれ自体であると思う。 このスイスでの安楽死についてのアンケートはとても参考になったし、何か冷静になれた気がする。そもそも死ぬ権利を持てない理由はなぜなのだろうか。 色々な意見で安楽死賛成が多いけれど、反対意見で印象的だったのは、 「ナチスのような奴らが現れたら悪用する」 「生きるのも生きようとせず、死ぬのも死のうとしないのが自然」 ということだった。そんなふうに自然に生きて死ねたらそれは理想だろうと思う。 あとは当たり前だけど一番の問題は、「その人の生きる苦痛がその後もし、生き続けていたら、消え去る可能性がないわけでもないこと」だと思う。それは誰もわからない事だけど、特に周囲の人は期待する事なのではないだろうか。 一方で、アンケートの中に、 「安楽死があることが、生きることの中でお守りになる。絶対死んではいけないと思って生きることと、何かあったら死ねる、と思って生きることには大きな違いがある」 このような意見だったけれど、わかる気がした。決して閉じ込められているわけではない、死ぬことも生きることも、自分の自由なのだと気づけば、逆に湧いてくる力もあるのではないだろうか。 大勢の人々の意見が見えるようになり (例えば、電車が誰かの自死("人身事故")によって遅れた時。帰ってから思い出し、その日付の事について調べた。「他人に迷惑かけんな」と言うツイッターの人。同情的な人はあえて呟かないかもしれない。誰が亡くなったのか。高校生の男の子だった。そんなに若くして、何が原因かは私には分からずじまいだろうが(あるいはもしもう少しだけ知ろうとすれば、わかるのかもしれないが)、なんでわざわざそんなに辛いやり方で死ななければいけないのだろう?と思った。 長い時間をかけ考えられる、引き返せる時は引き返せるシステムを作る。 でもそれも、一人一人が自分らしくいられる社会が構築できれば、必要のない事だろうか。 "労働と「作品」によって本質を生み出すものとして人間を規定すること、共同体を生の意味を回収するものとして捉えている。問題はその点にあるのだ、とナンシーは考える。 共同体の喪失という意識は、ひとつの幻想かもしれない。というよりも、むしろ、共同体は「絆」のようなコミュニケーションとはまったく異質のコミュニケーション(これは産業社会の内部には存在しない)から生じて、関係の「分割」から生じるものの場所を占めたと考えるほうが正当だろう。生産=有為に絡め取られているので、解体の幻想を抱いてしまったのだ。 孤独に存在する個々人から組織される、生産(=有為)の体制。これが民主主義から出発してファシズムに行き着く全体主義的、内在主義的な共同体である。 特異な存在者は、諸存在の混沌とした同一性という基底、あるいは生成という基底、あるいはまた一個の意志という基底からとりあげられるものでも、そこから生い立つものでもない。それは有限性そのものとして出現するのだ—最後に(あるいは最初に)他のひとりの特異な存在者と膚を(あるいは心を)触れ合うことによって。 特異な存在者は特異であることからして、おのれの特異性という分割のパッションー受動性、苦痛、そして過剰—のうちにある。他者の現前は、「私の」情熱の狂奔を食い止める境界とはならない。逆に、他者への露呈のみが情熱を解き放つのだ。 この点についても、ナンシーは表象的にしか論じていないので確定的なことは分からないが、おそらくハイデガー的な死の不安に対抗する根本的な気分(情状性)として、歓喜を置いているように見える。 ハイデガー的な共存在を支えているのは、可能性としての死の不安だ。ハイデガーの本質観取によると、死の観念は私たちを「単独化」する。私たちは身の回りの世界から切り離されるとともに、実存の自覚(自分はただこの一回限りの生を生きているのだ、など)に達することができる。ハイデガーにとって、民族の運命共同体とは、そうした死の不安の自覚に支えられて成立する本来的な実存に目覚めた人びとの共同体のことだ。 一方、ナンシーのいう共同体は、不安ではなく、情熱すなわち歓喜に基づいている。 ハイデガーでは、本来的な語り(言葉)は、良心の呼び声として、現存在に降ってくる(第57節)。それは日常の生活に落ち込んでいる私たちを呼び覚まし、先駆的決意性(=死の深い自覚に基づき、本来的な自己のあり方へと目がけようとする意志)を了解させる。 だが、ナンシー的には、言葉が実存の真理を明らかにするという構図は成立しない。そうした構図では、良心の呼び声以外の言葉、「エクリチュール」は、頽落した言葉、すなわち「空談」におとしめられてしまう。だが共同体は、死という有限性を共有する特異性の間における感情の“交換”において成立する。このことは恋人関係に限らない。共同体は目的や「真理」をもたず、また「作品」でもない。 特異性の、そのコミュニケーションの、その脱自の描く線は政治的なものであるだろう。「政治的なもの」とは、おのれの無為に向けて構制された共同体、みずからの分割の体験を意識的に遂行する共同体の謂でもあろう。このような意味作用は、通常私たちが理解しているような「政治的意志」には、少なくとも単にそれだけには、依存していない。それはまだこれから考えなければならないことだ—その意味作用自体が、無為と分割の体験に依存しているのだから。書くことを止めてはならないのだ。 " ナンシーはバタイユの至高性によって、互いの領域を超えていくイメージと書いてあった。 田崎さんは、ヴェイユのカイエ4を元に、一般的な理論=サド/不感症な ではなく、「マゾ的理論」を構築できないか、と書いていた。 自らが疲労し尽くした時、存在が自分から何も始められなくなった時、その時間が止まる。(救済がありそのためにそれまでの犠牲があるという「時間」ではなく、グノーシス的時間、つまり時間の放棄) その時間が止まった生の中で、人々は、被虐者としてイデアを分有する。犬と犬が犬のイデアを分有するように。そしてその中で初めて、人はコミュニケーションをとることができる。 おそらく、苦しみの中で人は受動的でありながら主体的にもなり、人をパトスで感染させるから? 自分が今の状態で理解したのはそういう風だけどまだ読んでいきたい。 正直、このコミュニケーションにはハードルの高さを感じたけど、バタイユの至高性(恋人)と表裏と考えるとわかりやすいのかもしれない。(けどこれもそういう図式で正しいかわからない) 私は、投身自殺をしようとする人と、そういった共同体を、コミュニケーションを築けるだろうか。私が投身自殺しようとする時、逆はどうだろうか。私はその人の話を聞くだろうか。そもそも気づけるだろうか。 でもそういったシーンを、多くの映画やドラマで見たことがある。 その高校生についても、私はしばらく忘れていたけど、もしかしたらスクショやノートがあるかもしれない。そこから何か新しい情報に接することができるのかもしれない。 でも、どうだろうか。 ナンシーの「投壜通信」の要素について自分はまだ明確にわかっていないけど、この「宛名のないメール」の送り主は、自分で「ぼっち」と言っているけど、そうではないと感じる。実際私はゲームも知らなかったし、返信もしなかったのだけど、こうやって文章を保存していた。それは不思議な繋がりだが、確かに感情的な何かだと思う。 二時間程度の映画を焼く時、私のPCだと、二日程かかります...。 その辺のストレスはお金を払って解決した方がいいと思う一方で、編集をずっと詰めてやってきて、書き出す数日くらいは、何かに任せて空白の時間を作りたいような不思議な気持ちが昔からあります。 それはある意味土練りと窯焚きと少し似ている時間を待ちたいという感覚なのかなと、先日益子在住の陶芸家、宇城(うーたん・うしろ)さんのアトリエ兼ご自宅へお邪魔して思いました。 私は冬で固くなった粘土を体重をかけて捏ね、荒練り、菊練りと捏ね方を教えてもらってから、手ろくろで地道にコーヒーカップを。山井君はろくろでリム皿を作ろうと奮闘していたが姿勢から何からかなり難しそうだった。 この練りのプロセスは、その後の造形のしやすさにも影響してくるそうです。これを一日100個と作る...。相当な事だと思いました。 12月に窯の火入れをするため、その前に乾かす時間が必要なので少し前に形を作り、その後更に底の部分を削ります。(下の図参照)今回削りの過程はうしろさんにお願いしました。完成は15パーセント縮むそうです。 まるで遺跡のような窯。うしろさんはこの窯をご自分で数ヶ月掘り、造成されたらしい。 厳密な火の温度、薪の種類による灰の中の珪素や鉄の混じり方からくる色の違い、捨て窯を作ることによってできる、熱や空気の動き..、化学者のような言葉に、縄文時代から続いているような土着的な自然と密着した労働性、窯を信じる・儀式・祭り、といった精神性、さらには伝統芸能や現代美術的な文脈が、うしろさんの作陶の姿勢によって渾然一体となっていて、感服した。 しかも実際に近くには、縄文時代から人々が生活していた草原がある。 この窯をみて思ったのは、「しまった、すごい本物がいた...映画を撮る前に勉強に来るべきだった...」と言うことだった。今回「掘る」「縄文」「火」「窯」「儀式」、は間違いなく映画の中のキーワードで、そこを自分の想像だけでなく、更に本格的に出来た可能性について考えたのだった。 しかし、「でも、映画を撮ったから今ここにいるんじゃないですか」と言われて、そうだろうとも素直に思った。こう言うふうにステップアップしていけるのはたまらなく嬉しいとも。 それは一度扱うことができ、もっと掘り下げてみたくなったという興味の点でもそうだし、もっと縁的な扉がひらけたと言う意味でもあるのかもしれない。 うしろさんとも、もう十年近く前から知人で気になる存在ではあったけど、一番は、現代美術を通過した後で土に興味を持ち始めた山井君を会わせたかったと言う意識があり、自分もうしろさんに会うことができた。土着的で生活工芸でもあることと前衛的な芸術性の共存には自分の心にも響く道がある.....。
Nice Photo by Ryusuke Yamai
益子には他に、Art into lifeと言うオシャレなカルトレコードショップや色々な喫茶店もある。夜はスーパーで買い物をして火で焼いて食べた。 焚き火をしながら、苦手意識のあるダンスの身体の動かし方を教えてもらう。ベースはリズムの捉え方で、体の末端ではなくて、胸でリズムをとる。腰を日本人は本当に動かすのを嫌がるので、胸と腰を動かしながら、動きを拡大していく...。次はクンダリーニ・ヨガについて。生命エネルギー。これは次の日、ろくろで形を作る前に行う、回転の中で粘土を塔にしたりそれを崩したりして、上へ下へとエネルギーの波を作っていくような官能的な作業と繋がった。 毛嫌いする人もいるし、一方で最近はかなりコモディティ化してもいるけれど、私は西洋占星術オタクでもある。グノーシスだと惑星も偽物の神様が作ったものだけど、まさにだからこそ、何かあの動きに私たちをとらえる意味があるのではと思ってしまう。グノーシスについての説明を読むたび、自分は「仏教じゃん」と思って、よく知ったものが結局真理であったと言うような、やや残念な気持ちになるのだが、解脱もそうだけど、時間や歴史や感情から私たちが抜け出た時は、私たちは私たちと同じものなのだろうか?...と言うのを、AIも含めて最近ではよく考える。 西洋占星術ではVestaと言う小惑星が、火を護る人を意味するので、元消防士で、陶芸家のうしろさんのこの惑星の位置がかなり気になっていたのだが、やはりと言うべきか、太陽(人生の方向性であり一番重要な星)と合(同じ位置)だった。これは占星術的には、生き方にVestaの象徴が混じると言うことを意味する。 二日間、朝起きると陽射しの移り変わりを感じながらキッチンでコーヒーを飲み、話が途轍もなく壮大な方角へ向かった。まるで誰もこれまで知らなかった世界の神秘を片隅にいる三人だけで人しれず解き明かせそうなエキサイティングな時間だった。それから外へ出てローカルなお昼(益子はトンカツが有名だけど、猪鍋のあるいろり茶屋と、手打ちラーメンですごく素朴な味わいのあるぎおん、へ今回は行った。)を食べ、と言う健康的なルーティンが出来ていた。 私はこれまで、無意識にではあるが、いつ死んでもいいような気持ちで生きていたと思う。朝四時まで作業をし、ご飯はケーキとキャベツとシーチキンとコーヒー20杯、、みたいな生活が、十代から三十代のほとんどだった。山井君と暮らし始めてから、これからの年齢を生き延びていくにあたって、「命を大切に生きる=サステナブルな人生」のための、これまでの生き方の全否定とも言えるほどの、多くの問題点が浮上した。うしろさんもやはり、ご自身の人生で、それでは生きていけないと感じるタイミングがあったと聞き、参考になった。これは奥野美和さんとも以前話したことで、自分の命を燃やすような激しい表現性と、成熟して生き延びることの両立をしていくことは、難しいけどきっと出来るしそれによってもっと広くて深い作品を作れると言うこと。 自分の場合は、数々の失敗を経て、陶酔と幻滅がセットであるからただの幻想は要らず、しかしたまに本物の奇跡があって、その驚きにしか興味が出なくなってしまったのもある。 少し前に読書会で『ジェンダー/セクシュアリティ』を読み終えて、ミッテランとデュラスの対談もその頃読んだ。二人は第二次世界大戦中、レジスタンスの同志だったらしい。バタイユとヴェイユも恐らく政治活動を通して関わりがあった。結構みんな会ってるんだなと不思議な気持ちにもなる。以前も書いたけれど、自分は横の繋がりの意義がはっきりとはわからない方だ。でも、前述の人たちの人生の交わりがその後に全く影響がなかったとは言い難い。私とうしろさんの繋がりはどうかというと、現代思想家のBangi Abdulさん繋がりではあるけれど、同時に細倉真弓さんとうしろさんもご友人だったりして、アンダーグラウンドなサブカルチャー界隈、と言えるのかもしれないけれど、同時に濃淡はあるけど神秘主義で、現実主義で、エレメンツが大事でもある。 滞在中、三人で話す中で、『ジェンダー/セクシュアリティ』での知識が役立ったところがあった。人間ではそうなので同じと思いがちだが、多くの生物にとって、セックス=生殖ではないと言うこと。生殖のためにセックスをするのは人間とか、複雑な生物だけだ。本来の意味はおおよそDNA修復といえ、ウィルスにとっては他のDNAを取り込むことで、己が若返る(自分が自分の子供になる)ことができる..... しかも、それが太古のDNAであっても。でもこの話が、どんな話の前で後だったろうか... 植物のような内在的性=眠り、こそが、生命の本質であって、活動とは何か...?熱について.....恒星の最期について..動いていなかったものが動き始めた瞬間について........明晰夢について。これらのことを、三人はそれぞれ持ち帰って、自分の作品にしていくのだろうね、と山井君は言っていた。 昨日からうしろさんは、窯の火入れと、NYで行われる個展のための制作を開始されると言う事だった。今年ももう終わりだけど、1日1日が同じであり、同じでないなと感じる。 八月ごろから、この間にアフレコを半分ほど行い、147分のラフカットができ、120分台にさらにカットするのを目標に、何人かの方にご意見をいただいた。
あんまりそういうことを自分では思わないのだけど、 Cosmo Corpusは、最高傑作になる。 映画制作の経済的な難しさを考えると、さらに最後の作品になる可能性もある、が、それで本望と思える作品だ。そしてまた、撮れるか撮れないかは別として、これからが一人前の映画監督の始まりなんだなと思いもする。 イリュミナシオン、DUAL CITYは、2011年の東日本大震災がきっかけで、どうしても完成させざるを得ないほど重要なテーマから始めようと思い、「死者との再会」というパラドックスを選んだ。 それを今回のCosmo Corpus(コスモ・コルプス)では、かなり直接的に映画のフィクション世界とつなぐことになった。さらに実人生の神秘現象体験(非科学的な出来事)もそのまま、世界への一つの問いとして入れることができ、表現できた。 それらに命を吹き込んで、Cosmo Corpusが傑作になったのは、私の力ではなく、出演者によってだと素直に思う。それぞれ少ししか出ていない方でも、関係なく本当に素晴らしい存在感。 さらにスタッフとして参加してくれた方々の顔も思い浮かぶ。 懐かしいものとの再会・合流。あるいは逃避?幼い頃、映画が終わり、映画の中の人たちと一生会えなくなるのが悲しくて仕方なかった。その感覚に自分の力でなりたいといつからかなぜか思い、物語を作り始めた。自分でやれば、別れることもないとでも思ったのだろうか。 「その感覚」を持つことが実人生でどういう意味を持つのか。全然別の可能性の世界との交流。一人ではない、という確信、だろうか。まるで死者たちのように物語に介入できないまま、私たちは映画の中の世界を、応援し、愛し、ただただ見つめるけれど。その目線は、私たちの世界を見る誰かの視線や思いをさらに別の次元に想像させる。 この世界だけではないということ、映画というものに対して感じていた、その世界間の応援こそが、Cosmo Corpusでの課題でもあった。 --- 前回のイーロン・マスクの件ですが、この間にもいろいろなことが起こり、ニュースにもなり、別にみんなも100%いいと思ってるわけないよな、と思い、アカウント持っていないと、全然twitter内のことも見られなくてわからないので、書くのはやめました。 私自身は、作家の藤井太洋さんやGreg Egan(数学サーバーにいる)がいることもあって、マストドンを毎日なんだかんだ読んで、関係ない想起や軽口を叩くという感じで、初めてミニブログに結構ハマってしまっています。知り合いは全然いないし、見つける必要はないというのがマストドンの良いところっぽいです。twitterだと現実に会った人と繋がったりするので(インスタもそうですが)自分はあまりうまく使えないし、使う時は宣伝しかできなかったので、なんとなく難しかったです。じゃあマストドンで集客できるかと言えば、おそらく全然できないので、FBとか、インスタとか、全く別のやり方とか、映画完成の暁にはみなさまに届くように何か考える必要はありそうです。 私はmastodon.jpのサーバーから始めたのですが、藤井さんが、「海外のサーバーからは、日本のサーバーは結構弾かれていて読まれない」ことを投稿されていて、それでonlineというところに引っ越しました。ただこれは海外のサーバーで、日本でなら、fedibird(訂正🙏)というサーバーは雰囲気が良さそうだなと思ってます。 調べればすぐ出てくることですが、マストドンはそうしたいくつかのサーバーがあって、自分がどれに入るか、あるいは自分自身で作るか(藤井さんはそれをやっていらっしゃる)、選ぶ必要があるのと、選んでも、twitter全体のように大企業がやっているわけではないので、大勢の人が投稿するとコストもかかり、いきなりサーバー自体が消えることもあったりする..という不安定さがあります。 しかし一方で、マストドン以外でも、fediverseを採用しているサービスであれば同じ世界の一環として、フォローできる仕組みもあります。(例えばFBのアカウントのまま、誰かのインスタのアカウントをフォローできるような)。この時のfediverseとは、前述したサーバーの固有名ではなく、「連合したユニバース」という意味のようです。https://ja.wikipedia.org/wiki/Fediverse マストドンはドイツ生まれなのですが、ドイツやオランダの政府も公式でサーバーを作っています。商業的、宣伝的、さらにこれから金融的にもなっていくというサイトとは違うポリシーやその開かれたシステムに興味があります。 (元twitterのドーシーのBlueskyやthreadsなどもfediverse採用のようなので、マストドンはなんだかんだやはりオタク性が高いし、一般的にはそっちになるかもしれませんが。 あと、どのサービスが台頭しようと一人勝ちで人口を囲い込む、という感じじゃなくて、利用者は自分の好きな場所にいられて、そこから別のサービスをフォローできるのが便利そう。私はマストドンで合っています笑) ---- 三年間ほど関わってきたこの作品の世界が後何ヶ月かで窓だけ開けて扉を閉める..それはありがたいことで、淡々と近づくべき状態だけれど、終わったら次に何をしたいか、考え込んでしまう。 「完成しないと映画の世界から抜けられない」という、百合子さんの言葉を聞いてから、自分はなんでもとりあえず完成させようという意志を持てるようになった。 三年間は、私だけじゃなく、特に横山裕子ちゃんは本当に誠実に全部に携わってくれた。とにかくあとしばらくは、この世界を、今できる限り、今しかできない形で、豊かに仕上げていきたい。 (そのあとは家にある科学の本など全部読んで、観てない映画も観て、ガチなSFを書きたいかもな。。。) 数年前から新潟で暮らしているのですが、同じ北陸の石川県小松市滝ヶ原町で、ishinokoというフェスがやっているのを知って、9/29が自分のお誕生日でもあり、思い切ってキャンプで参加してみました。 きっかけは、Sapphire Slowsというアーティストのファンにちょうど一週間くらい前になり、ブックラというアナログシンセの音を生で聴いてみたいと思ったことでした。日本でライブをしないのかなと調べてみると、なんと石川へ来てくれるし、フェスのコンセプトもサステナブル、多様性を前提としていて安心できる。 フェス自体初めてでしたが、ishinokoは思想通りにすごく自由な雰囲気で、かつおしゃれな人が集まっていて(しかも結構近隣からが多くて、みんな普段どこにいるのだろう)、とても居心地が良かったです。 私は長年の夜型生活からか、睡眠になかなか入れないのですが、温泉街も近くにあるし、夜、昼、早朝関係なく、爆音で鳴っている音楽や人々の談笑や、自然の音が混じりあうのを聴きながら眠りに入れ、良い選択だったと思っています。 覚書(2023年時点) 交通面 ・Ishinokoのインスタに具体的な情報が沢山ある。チェックが必須。 ・参加者専用駐車場と会場の距離。カートがあっても、歩きでキャンプ道具を持ち運ぶのは難しい。その間はシャトルバスが通っていて、そこに積み込んで運べるボリュームにする必要。 シャトルは30分間隔で駅を出発し、。道を歩いている人がいたら適宜拾っていく。 ・キャンプ道具がなければ、自転車を使って移動するのはすごく良い選択肢。特に、滝ヶ原クラフトアンドステイというカフェ・宿泊施設から会場への道はほとんど森で、歩いても10分程度だった。森林浴ができた。 宿泊 ・1日目のお昼頃は、まだテントの場所は選べた。 しかし、二日目の大雨の際、一番水はけが悪そうなところを選んでしまったことを知る。晴れている時はそんなに感じないのだが、実は低地で、水たまりになるような穴があるようなところ。具体的には一つ目のテント会場の、土手すぐ下あたり。ただ森によって、朝方の日差しは柔らかくなる。 ・二日目、7ミリくらいの雨が夜中ずっと降っていて、床はたぷたぷになったが、テント布が分厚かったためか浸水はしなかった。地面には竹の切り株(?)もあって、破れそうな感じもあった。周りの話を聞くと浸水している人もいた。分厚めをお勧めする。 念の為水はけが良い場所を探すか、陽射し用にもなるタープもあると良いのかも。また穴にはダクトテープもあると穴が塞げていいのかも。 ・近くの温泉街は最高だった。粟津温泉、山代温泉など。シャトルバスは8時くらいまでなので、夕方にお風呂に入りに行って、そのまま眠れる状態で帰ってきてライブを見ていた。 Food 猪や熊などのお肉や、地域で採れた野菜を利用した料理を食べられる。キッチンのゾーンがあって、料理人の様子も見られる。Farmoonの船越雅代さんが暗闇の中で炎に手を伸ばして、お肉を裏返している何気ない写真を見て、なんとなく神聖なものを感じてしまった。 フェス価格ではあるけど、よくある屋台飯ではない贅沢さはあった。コーヒーやタコス、カレーなどはキッチンの他に常時ある。 Live ・フェス初参加なので比べることができないが、隣に太鼓や笛などを演奏する神輿があって、たまにDJに乱入してくるのは他ではなさそうな気がした。 ・アーティストがすごく近い。会場で隣にいたりする。 ・二日目の雨でも決行。途中で眠ってしまったが、一時間遅れで朝五時までやっていたのだろうか。 ・雨で大変そうだなと思っていたのだが、食品祭りさんは、ステージ上に観客を上げることで大盛り上がりにしていた。その抱擁力に感動。(晴れの場合でもそうだったかもだけど) ・出演されているDJ、アーティストの方は皆素晴らしかった。多くの人が文化人類学的な領域に踏み込んでる気がして、そんなこと関係なくお客さんも踊っていた。 ・他に、最近気になっていた太極拳の演舞を見られたり、タトゥーのお店や横丁みたいなゾーンがあり、楽しかった。また、赤ちゃんをフィールドで自由にハイハイさせている人がいて、すごい脳に良いだろうなと傍目に感じる。自分も子供の頃に、こんな場所に来てみたかった。 その他 ・滝野川には石切場があって、それを使った石橋や、神社の鳥居がすごい。 ・川沿いに彼岸花がたくさん咲いていた。9月末なのに、まだまだ夏といっても良い。 ・全体的に手作り感がある。生まれたてのフェスという感じでゴミゴミしていなく、平和的、地元の文化も取り入れようとしている一方で、尖った音楽セレクト。 ・バスに乗っているときに、後ろに座っていた外国人の方二人がRAVEの話をしていて、「バーニングマンは商業化された」「Very lame(ダサい、終わってる)」とだけ聞き取れたのだが、それに対してIshinokoに今到着しつつあるということは、逆の思いなのだろう。 ・もっと入り込みたければ、(ボランティア)スタッフ、として参加するのもアリかも。。 前述した通り、外国人も沢山いるけれど、近隣からの人が結構いて、地方に分散している力を集めることに興味が出ました。フェスは「趣味」の領域ではあるのかもしれないが、フェスが終わっても、そこで、生活を営んでいる方々がいるのに可能性を感じました。 実ずっと気になっていたフェスがあって、Frue なのですが、このフェスも滝ヶ原のステージでも、イベントを行っているのを今知りました。全国の沢山の「秘境」を切り開いたところに、こうしたフェスのステージがある事実関係について想像すると、良いことばかりではないのかもしれないし、観光やイベントだけじゃないものも必要だとは思うけれど、土は柔らかくて自然の力の方が圧倒的だったし、ショービジネスとは離れたところで人には音楽が必要だという、理想の形を追い求めているところに共感ができた。ドライバーさんに聞いたところ、本当の地元のお祭りは、あって、大きな旗とかもあげるのだが、なかなか人もおらずむずかしいと言ってらっしゃった。 P.S.最 近は、イーロン・マスクのやっていることがものすごく苦手です。 一度ここに書いたのですが、私情の範囲を超えていないように思えたので、また別のポストで書けたらいいなと思います。書くほどのことかはわかりませんが... この10代の方との対話、とても率直で面白かった。 ガクジン第61回 Sapphire Slows https://gaku.school/news/gakuzine_61_02/ |
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