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6/3と6/6の上映があっという間に無事終了し、明日フランクフルトを離れる。 前回のニッポンコネクションの時、知り合った方がいて、その方が毎年、今年はニッポンコネクションに来ないの?こんな作品が来ていたよ、とメールをくれていたので、私の中でまた行きたいと簡単に言える思えるほど、映画制作は近いものではなかったけれど、でも自然に思い出に残っていた映画祭と街だった。 今回は主に担当してくださったNoahさんやAlinaさんを始めとして、Juliaさん、Maxiさん、Andreasさんなどにとても詳しくアテンドしていただいて、前回以上にドイツの皆の出身地のお話や、フランクフルトのお店など(会場近くのベルガー通りのカフェストリートやドイツの伝統料理など)ローカルなことを聞けた。 10年ぶりに同じ街を訪れて、前回はそう考えた覚えがなぜかないけど、フランクフルトは綺麗な街だなーと散歩しながら思った。まず木が巨大で、鳥の声がとても美しい!でも日本の山に登ったことのあるMaxiさんは逆に、自然の組み合わせなどが見たことがなくて面白かったと言っていた。(シダやその近くにある木々など) 映画祭にくると語学の天才に頻繁に会うけれど、3日に司会をしてくださったMaxiさんは28ヶ国語に手をつけていて、何を書いているのかなと思ったら、色んな文字で私の名前を書いてプレゼントしてくださった。Juliaさんもルーツのベトナム語より日本語の方が得意だが、日本で勉強をしたことはなく、全部ドイツでの独学だったり、通訳のMariaさんは12歳から趣味で日本語を始めていたり...。 ここ10年くらい、マリーとの仕事が終わった2020くらいから、ローカル志向になったこともあり、英語の勉強はもうしないでいいかな... というか、なんでしなければいけないんだくらいに(英語が母国語の方は必要ないので)思っていたけど、自分が考えている映画の企画をもしこれから続けるならば語学が必須なことなのはわかっていて、それ以上に近くで語学自体を楽しんでいる若き天才たちを見たり、英語で色々聞いてもらえると、とてもポジティブな気持ちになった。(でも本当にびっくりするほど話せなくなっていた笑) Eric NyariさんのFilmmaker's workshopなどで実際に国際共同制作のお話を聞いたり、なんといつの間にか筋金入りの映画製作者になっていた、マリー・ブラッサール氏のプロジェクトの時に役者で参加されていた香子さんの映画祭を回ったお話を聞いたりして、まだせっかく生きているならば、もう一歩くらい、踏み込んで努力をしたい気持ちも湧き上がってきた。(映画業界に入るとかとは全く別の形で) 勉強。ただ多分、「仕事で使うから」だと自分の性格上面倒で諦めるので、何か全然違う報酬を発明しないとなと思っている。たとえば英語で小説を書いてみるなど...?楽器と一緒に歌える英語の曲を増やす...。 Maxiさんは、おばあちゃんの日記の古い文字や、ポストカードが読みたくて、文字の勉強も始めたらしい。 10年ぶりの大聖堂。撮っていて、前にも来たことを思い出した
The cathedral after 10 years. I remembered I have visited before during shooting here.
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我が人生で初めて出来た、推し、ダンサーのYasminさん 初めて興味を持ったアスリートの方でもあるけど、ブレイキンはスポーツ的な部分以外もとても豊かで、その表現力とかコミュニケーション力、キャラクター性(それぞれのダンサーの個性)に惹かれるものがある。 この時のFinal含む三つの動画全部すごい好きなのだけど、別アングルのカメラでも見てみたい。 優雅すぎる。自分のターンじゃない時や試合終わった後に踊っているのも同じくらい見ていて面白い。 ←こんな風に誰かとコミュニケーションとってみたい。すごくワイルドでもあり、愛を感じる。MiMzさんもめちゃくちゃカッコいい。 ←Narumiさんもとてもかっこよくて、音楽も鬼気迫っているので、このバトルよく見てしまう スージーアンドザバンシーズの曲がかかって踊っているのがカッコいい 2025年にRedbullを観に行った時に、登場した瞬間、他の人たちと全然違う、あんまり見たことがない、リラックスした遊び心のある大きな存在感があって、それらが全部クールで、すごい人いるなと思った。 でも他の出場者の方たちもみんな個性や得意な動きが数多くあって、悪役っぽいというか、キャラクターっぽい表情とかもあり、頭で考えるよりは、やっぱり一人一人の体とか性格の特徴から来る個性なんだろうか。男女の体力差とかを考えると意外だったけど、個人的にbgirlのバトルの方が記憶に残っている....。(bboyでもTsukkiさんは過剰なパワフルさと美しさがあって、牛若丸ってこういう感じだったのかなと思わせるところがあり、気になった。完全に個人的な感想...) ← みんなが盛り上がるのが面白い。これから聴こえるはずの音にダンスを合わせるのを、本当にどうやっているのかわからない。
ブレイキン自体すごく面白いけど、Yasminさんを知ったことで、関心が一過性にならず、少しずつ知ることが増えてきた(ダンサーの方とか技など..)。自分にとって、体にも心にも魂にも刺さってくる感じがする ただ、自分の場合、どうしても、映画にしたらどうなるのかみたいな発想が出てきて、体の動きだけでダイナミックなものを流れとして伝えているから、編集とかは出来ないはずではあるが、カットを沢山作ってアクション映画のようにするのが一番正当なのだろうか。 観ている方としては、踊っている人のサイズだともう一人のアクションや、ジェスチャーが見えないので(これがブレイキンの中で個人的にとても好きなので)、プレーンに撮ってる映像がいくつか別のカメラのアングルやサイズであるのが一番ありがたい。 でもやはり、映画的に体に対して出来ることを極めるとしたら、ダンサーインザダーク方式(100台のカメラ)なのかな... 長回し.. スロウモーション... なにか斬新な映像... あるいは劇中劇でドキュメンタリーとして撮る...(その場合でもカメラ数の問題出てきそうだけど...) 100台のカメラで1分の一つのダンスを撮ったら、100分の素材ができて、なんかそういう風な再構成するようなことも面白そうだけど、ブレイキンやダンス自体とはやはり全然違うものにはなってしまう。 クレンズドで映像化をサラ・ケインが禁じていることに対し、どう答えるかという部分とも繋がってきそう。映画なら映画ならではの肉体的な方法が必要だろうと思う。 取り急ぎですが、アンコール上映が決定しました。 ぜひこの機会に観ていただけたら嬉しいです。 近況: --- 予告篇と、大木監督について これまで映画を劇場公開したことがなかったので、今回、映画上映前によく流れる予告篇を、初めて上映してもらうことができた。 しかも前もってチケットを買っていた、大木裕之監督の特集、『優勝・renaissance』の前だった。 大木監督とは実は、2011年の前はイベントに呼んでいただいたり、高知に行ったこともあった。初めて会ったのは20歳くらいの時で、イベントの手伝いに行ったらカメラを持った大木さんがいて、とても嬉しかった。 その間の長い期間どういう関係の仕方をしていたのか覚えていないのだが、そこで連絡先を交換したのか?たまにメールとかもしたり、今パッと思い出したのは、新宿三丁目を夜歩いてる時に突然電話が来て、何か用事かと思ったらなんでもなく、元気かどうかみたいな、それだったらいいのよ、+α、みたいな感じだったような。。 昼間にどこかの路端に座ってる大木さんに会って、私の着ていたTシャツに書かれている文字を目を細めて読んで、「Larry... Clarke... Photography?」と笑われたり、 あと何日か前に歩いていてふと思い出したのだが、私が「シンクロニシティですね」と何かの拍子に言ったら、「それはキホンでしょ。」と言われたことがあったなぁと。 また、私が自分の名前の由来について話したんだったか、中上健二は、古い、だったか... 微妙なニュアンスを思い出せないのだけど、否定的なことを言われた。でもこないだ玲児さんが教えてくれたのは、大木監督は最近はフォークナーのことばかり話していたと...。ものすごく意外な感じもするけれど、どの辺だったのだろうかとても気になる。フォークナーについては私なりに話せることもあるし、意見を聞いてみたかった。 追悼上映で大木監督の近作と昔の映画をいくつか観て、こんなこと考えていたんだなと、共通点に気づいた。これからも映画がある、とも思い、自分が死んだ後、生きてる人にそう完全に思わせる作品て作れていないなと思った。(コスモ・コルプスは少し出来たかもしれなかったので、大木監督に観て欲しかった) 『優勝・renaissance』の、浜辺のシーン。多様性とかそういうレベルではなくものすごく色々な人が同じ空間にいた。音楽と共に急にダンスが始まる。このダンスの時に笑ってしまった。あまりにも大木さんのリズムだった。作品、というより、自然そのもののようなフィルムの光の色の凄まじい美しさ。今でも残像が残っている。一方大木監督はそのアドバンテージを捨ててビデオに行った。最近の作品の中の「Lust for earth」という言葉。(to か towardみたいな意味で記憶しているのでforじゃなかったかも...) 憧れのバンドとの夢の対バンのようにして、初めての劇場予告篇が流れた後、大木監督の映画が始まった。もちろんシンクロニシティは基本なのだろうけれど、それでもやはり、不思議な感覚だった。 映画の上映中は、毎日ご挨拶していて、本番の数時間前から心拍数が尋常じゃなく上がっていて、健康的に大丈夫かと思っていたが、今になってみると、色々な方とお話しできて、久しぶりの再会もできて、山井隆介くんは勿論のこと、途中司会で登板してくださった山田遼さんや鮎川純子ちゃん、三村修さん、ヴィヴィアンさんを紹介してくださったheykazmaさんなど、みんなすごく協力してくれて、ありがたかったし楽しかった。 ゲストにお呼びした方々とは、本番以外に毎回1時間くらい打ち合わせで話していて、それがまた感動的というか、スピリチュアルですらあった。ゲストトークて普通、こんな深い体験なのだろうか。今後にも間違いなく繋がってくるので、そのうちまとめたいと思う。知り合えたのがとても嬉しい人たちばかりで、あまりこういう気持ちになることはないのだけど、これからも離したくない。 --- 映画祭と、ブリストル(ダブ) 数日後からフランクフルトの映画祭で、10年かかって同じ場所へ行くのがやはり不思議な感じがする。しかも、応募ではなく、twitterでexperimental roomsの星野さんが映画のことを書いてくれたのがきっかけで、映画祭から連絡をいただいたのだった。 前回はホームステイで女性の家に滞在させてもらえ、ドイツ式の朝食を作ってお話してくれたり、アットホームだった。海外の日本映画祭で、みんな日本の文化に興味があるようだった。ビジネスライクというより本当に友人が何人か出来るような感じ。 なかなか行けなそうなので、映画祭の後、一人でブリストルへ行こうと思っている。今、次の映画のことを考え始めているのだけど、ダブが必要だと感じている。 映画館の音響について今回すごくパワフルだなと思ったし、エンジェル・ダストの音楽がやはり物凄く痺れたので、次の映画はダブを映画音楽にしたいなと...。真弓さんのご紹介で、riddim chango recordsのヒロシさんにブリストルについて伺って、色々な場所を教えていただけた。 teaching in dubというイベントがトリニティセンターというところで不定期でやっていて、調べてみたら、ちょうど行ける!Jah Tubbys出演。 ブリストルは、マッシブアタックというより、Young Echoというコレクティブがとても好きで、こんな人たちが集まるのはどんな所なのだろうととても気になっていた。 --- 次の作品 書き終わらせたい小説が一つあり、それとは別に、映画で撮りたいものがある。 一つは、前から何度か書いている、サラ・ケインのクレンズドを起点にした映画。もう一つはいくつか必要事項がありそうだけど、南総里見八犬伝みたいな子供も楽しめるような話(表は帝都物語とか幻魔大戦とかX、ブレードランナー、小説の方の電気羊とかそう言った都市のイメージもあるSFアクションで結構本質的な部分もある映画) ギター、いつかはちゃんとしたものを買いたいと思っていた矢先、遼さんにお古のグレッチをいただいた..。物凄く可愛い。ケースから出す時に間違って弦が触れて音が鳴ってしまって、それだけでもとっても綺麗な音で全然違うので驚いた。Pixiesとか弾きたくなって、練習している。 この映像を観て、キム・ディールってセクシーな人だなぁと思った。表情に一々深みがあって、感情を動かされる。笑った後に真剣な顔をしたり、ドラマを感じる。そしてベースが本当にグッとくる。 映画『コスモ・コルプス』に影響を与えてくださった方、昔から映画についての文通をしていた、元は私が彼彼女らの作品のイチファンだった友人。何かその人に、観て欲しかった人。
決して短くはない映画に、お忙しい中、時間をとってくださり、しばらく会ってなくても、それぞれの雰囲気が伝わってくる言葉までもらえて、嬉しかったです。 本当にありがとうございました。 応援コメントって、今日日、権威的で宣伝的な感じもし、どうかなとも思ったのですが、頼み始め、受け取り始めてみたら、少なくとも私の場合は、そう言う単純なことではなかった。書いてもらった言葉が、自分に循環するのを感じた。書くことを選んでくれた方には、とにかく感謝しかない。欲を言えば、もう一人書いて欲しい方がいたけど、いつか観ていただけたらと思う。 落ち着いたらWebサイトなどにもアーカイブとして掲載できたらと思っております。 Aru-2 (ビートメイカー/プロデューサー) Cosmo Corpusを見て、分かることと分からないことどちらも混在しあっている映画でそれがなんとなく心地良いという今までにない不思議な魅力を感じた。 もし全部が分かってしまったらそれは退屈に違いないわけで、分断された少数派の人々に対してどこまで寄り添えるか自分自身に問いたくなったりした。 孤独と生きること、他者と暮らすこと、昔も今も未来も時代や環境が変わっても人間が生きていく事の根っこはあまり変わらないのかもしれない。 大事な人に会える日々を大切に過ごすこと、挨拶できることの幸せを忘れずにいたい。 - 斉藤綾子 (映画研究者) 「2022年にあって2万年後にないかもしれないもの」「本、特に紙の本、身体、性別、こんなふうにいろいろなものがある地球、呼吸、誰かとの帰り道、言葉、感情、戦争、愛、挨拶」 呪文のようにどこからともなく聞こえてくる声。激しい波の音と壮大な海と砂浜。ただ一人、地球で最後の人間となった死者を埋葬し続ける兵士。そこに突然降り立った地球を覚える未来の少女。人間の記憶はどこへ行くのか。死者の記憶は過去へ封印されたまま、メビウスの輪の中で永遠に回り続けるのか。いや、それとも宇宙の粒子となって、わたしたちの回りに存在し、気付かないまま死者と交流し続けるのか。 海が飲み込んできた無数の生命体は過去、現在、未来という地球的時間を超えて、宇宙的時空間を介在させているのか。それとも汚染された海の毒は生き残った生命体を破壊するのか。 冒頭から映像と音の強度に画面から目が離せない。どこへ行くのか。戸惑いながら必死に画面を見つめる。「宇宙的孤独共同体 コスモ・コルプス」と名づけられた長谷川が描く世界は、映像の前衛と写実が水のイメージとして結晶化し、生と死の境界を無効化する。サイエンス・フィクションとは常に現実の陰画として、「今、ここ」と「いつか、どこかで」の間を行き来する。その圧倒的な映像と音が作り出す世界を作り出しながら、長谷川は生命体の孤独と向き合う。その想像力を支えるのは佐渡島の存在だ。いや、このように言い換えても良いだろう。佐渡に渡った作家がカメラのファインダーを通して見つめる島の歴史や記憶に向き合い、書き換えていく。宇宙的孤独共同体とはその作業のドキュメントではないのか。 現代編で父を失ったカイチはその名前の通りに、海を知り、失われた父の記憶を探すことができるのか。カイチの母ユキは日々の生活と宗教に救いを見いだせるのか。過去作では前景化することがなかった宗教という新しいテーマに作家が込める想いは何なのか(だが、SFと宗教が近しい関係にあることをわたしたちは知っている)。 わたしたちは二万年後に何を、誰に遺すことができるのか。答はない。だが、長谷川が託した祈りにも似た小さな声をわたしたちは聞き続けていく。 - 高水裕一 (物理学者) 長い長い時間の流れというのは、人の残した痕跡や文明そのものも洗い流してしまう。ときにそれは無常に近い、人類には抗えない非情さがある。本作品が描く壮大な時間スケールにもどこか、それがただよう。そんな荒波に抗うように、人は過去に戻りたい、あの人に会いたいと時間の波への抵抗を試みる。そこには純粋で削ぎ落とされた、人類の愛の姿が永遠に残る。 - Tabitha Nikolai(アーティスト) 『コスモ・コルプス』は、あえて多くを語らない美学に基づいた構造を通して、孤独の根源とその救済について深く思索を巡らせています。魅力的かつ複雑に絡み合う物語のループを紐解いていくと、家族や友人に囲まれていながら孤独を感じている人たちや、言葉も信仰も共有していない、お互いに知らないはずの存在の間にコミュニティを見出す人たちに出会います。また、たとえ愛する人と同じものを求めていたとしても、「渇望」という感情が、時に私たちをいかに痛切でバラバラな方向へと引き裂いてしまうのかを、本作は描き出します。 本作は実に時宜にかなった作品です。それは、私たちが現代特有の凄まじい孤立感や、より広範な政治的疎外感に直面しているからというだけではありません。孤独、渇望、あるいは繋がりといった円環の、どの地点に私たちがいたとしても、この映画は語りかけてくるものがあるからです。日々、私たちが経験することは退屈で、それでいて束の間であり、過ぎ去った後もなお、その不在が亡霊のように付きまとう—そんな、癒やしであり毒でもある感覚について、本作は深く突きつけてくるのです。 佐渡島の海岸で撮影されたその舞台設定は、曖昧な時の揺らぎを映し出しています。かつて過去に固定されていたはずのものは今や水没し、手が届きません。しかし潮が引けば、それらは再び姿を現します。ただし、そこにはフジツボや漂着物がこびりつき、どこか不気味で不可解な様相を呈しているのです。 劇中の奇妙な時間軸を司る正確な仕組みが、最後まで明かされないのも実にふさわしい演出です。それはハイテクな時空旅行のようでもあり、業(カルマ)の輪廻や、キリスト教的な復活の物語をも彷彿とさせます。あるいは、元理科教師によるフォークソングの放送というような、古風で不可解な実験の産物なのかもしれません。こうした多様な可能性の広がりとリズムは、長谷川億名監督の哲学的な懐の深さと、社会の瓦礫の中から魔法を生み出す創造的な独創性を如実に物語っています。 もしあなたが『ラ・ジェテ』、『天使のたまご』、『ストーカー』、『沈んだ世界』、あるいは『ヨコハマ買い出し紀行』といった作品を愛しているなら、この『コスモ・コルプス』の中にも、きっと心に深く刺さる何かを見つけることができるでしょう。 Through an ambiguous elliptical structure Cosmo Corpus ruminates on the source and remedies of loneliness. As we attempt to untangle its fascinating and intricate narrative loops we meet characters who feel alone even when surrounded by friends and family, and those who find community among strangers despite lack of language or shared belief. We see how longing, even when longing for the same things as those we love, can pull us in painfully different directions. This film is timely, not only as we grapple with a contemporary wave of tremendous isolation and broader political alienation, but because it has something to say to us in whatever moment we are personally in on the cycle of loneliness, longing, or connection—the combined balm and poison that what we are experiencing is both tedious, and brief, gone, but in the absence haunting. Shot along the coast of Sado island, the setting mirrors the murky blur of time, where what seemed fixed in the past is now submerged, and inaccessible, at least until the tide reveals it anew, but uncanny, glazed with barnacles and detritus. Appropriately, the exact mechanisms of weird temporality in the film are never fully revealed. They could be part high-tech time or space travel, part karma cycle, part Christian resurrection story, or the product of a former science teacher’s arcane experiments in broadcasting folk music. The range and rhythm of these potentialities bespeaks Yokna Hasegawa’s philosophical breadth and the depth of her creative inventiveness in making magic amidst society’s rubble. If you enjoyed La Jetee, Tenshi no Tamago, Stalker, the Drowned World, or Yokohama Kaidashi Kikou you will almost certainly find something to love in Cosmo Corpus. - Barry Doupé (アーティスト/映像作家) 最初にあらすじを読んだ時は、SF映画だと思っていました。しかし実際に鑑賞してみると、この作品は「惑星探索」という器(設定)を借りて、主要なテーマである「置き去りにされること」、そして身近な人を失うことで家族が崩壊していくという、極めて個人的な痛みを深く探求しているのだと感じるようになりました。 このように「喪失との対峙」という個人の体験に焦点を置くことで、地球を失うことや人間性の喪失という壮大なテーマとのパラレル(相似性)を、より容易に理解できるようになっています。観客としての私に自律的な思考を促すような、揺るぎない精神をこの作品に感じました。 ゆったりとした独特のテンポが「感情の真空状態」を生み出し、その静寂の中で、父の失踪後にひとりの青年が背負わされた、義務感や家父長制の重みを感じ取ることができます。劇中で、好奇心に導かれるようにして出会い、大切にされる本や文学、そして言葉。それらはまるで私たちの自己の深層へと至る「秘密のコード(暗号)」を内包しているかのようです。そしてそれは、たとえ地球が喪失の痛みで疲弊しきったとしても決して壊すことのできないものなのです。 - 細倉真弓 (写真家) 1番近くの人を思い出すように、まだ会ったことのない遠い宇宙の生命体を思うことができる。そんな想像力を持ちたいと思えました。 最近は、春というより初夏のようになってきて、毎週のように東京でチラシ配りをしたり、文芸部の集まりに行ったり、もうすぐしばらく会えなくなりそうな真弓さんとメンツが変わりつつ何回も会ったり、SFの大会(はるこん)に初めてお邪魔してみたり、本当にしばらくぶりの友人のお店へお邪魔したり、一方で去年からの治療で病院へ行ったり、新しく知り合った方もたくさんいて、いろんな人と話して、場所も言葉の記憶もごっちゃになりつつ、とにかく動いていると言う感じであった。
最近はアーティストの斎藤玲児さんのご厚意で、はじめは映画の宣伝に、というのがメインだったけれど、学校での課外授業も連続でさせていただけることになり、どうやったら十代の方(たち)が、一人一人が平等に、エキサイティングでパーソナルに、私も含めて映画制作を楽しめるのかについて、思いを巡らせていました。 石原海ちゃんのご紹介で、アーティストの三野綾子さんとさせていただいた対話が複層的にきっかけになり、久々に瞑想10分くらいしてみたら効果があったのか、プロの先生である玲児さんのサポートもあり、やっと何をやるかについて目処がつき、ここ最近インスタグラムに情報を集約していたので、久しぶりにブログも更新したいと開いてみた。 写真家の細倉真弓さんとの、代田橋の本屋さん、フロットサムブックスでの映画公開記念、インスタライブ。
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🎥 コスモ・コルプス、イリュミナシオン アンコール上映決定! 2026/5/30(土)〜6/5(金) 渋谷シアターイメージフォーラムにて ウェブサイト https://yoknahasegawa.com/cosmocorpus https://www.instagram.com/cosmo_corpus/ AuthorFilmmaker Archives
June 2026
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