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TĚLOPLAN『THE PAPER』《恬静 IDYLLIC DRIFTERS ISSUE》とイベントでの映像展示のお知らせ (2)

3/9/2023

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TĚLOPLAN『THE PAPER』《恬静 Idyllic Drifters Issue》とイベントでの映像展示のお知らせ(テキスト,1)

3/9/2023

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Lin Liさんのブランド、
TĚLOPLANのキュレーションされている雑誌、『THE PAPER』の中で、写真家の細倉真弓さんと対談をさせていただいています。

しかも、タイトルが《恬静 Idyllic Drifters Issue》って、、本当にときめきます。


見ているだけで瞑想的になっていくような、静謐な佇まいの本だと思いました。ぜひ手に取ってみてください。
テーロプランの服は、フェティッシュなセクシーさもあって、シックでお洒落で機能性も高く、ムードがあってすごく素敵です。(持っています笑)

「静と動」をテーマに、ということだったのですが、私は真弓さんの写真に対して、映像の観点から色々熱く話してしまいました。。おそらく今までの人生で一番、「イマージュ!」「デュラス!!」と言った日でした。とても抽象的な話を、本当にうまくまとめてくださって、読者としてもとても楽しみです。



また、それに合わせてPOP-UP STOREが開催されます。
参加アーティストの世界観を感じ取れる仕掛けもあり、
対談の際に少しお話に出た関係で、イリュミナシオンから感情の動きにフォーカスした4分ほどの映像、
また、現在制作中で最新作の『Cosmo Corpus(コスモ・コルプス)』の未来縄文篇(仮)から主に、自然のエレメント(火、水、風、土、光...)を映してあるカットを編集した、4分ほどのクリップを展示させていただきます。
​
ぜひぜひご来店して、美しい本と服を手に取ってみてください。

会期:3/10(金)- 3/21(火)
会場:3-9-12 HIGASHI  
https://3912higashi.com/

時間:12:00-20:00
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近況・お知らせ・意識の流れと記憶屋列伝2

2/27/2023

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◯前々回のブログでご紹介したSheena & The Rokketsのドキュメンタリーの長編バージョンが、3月17日から始まる、「TBSドキュメンタリー映画祭2023」(ヒューマントラストシネマ渋谷)にて上映されるそうです。私は一観客なのですが、初日3/19には三人娘のじゅんちゃんたちの舞台挨拶があったり、ライブシーンも大画面で見られると思います。東京会場のみだそうなので、この機会にぜひ!
『シーナ&ロケッツ 鮎川誠と家族が見た夢』

https://www.tbs.co.jp/TBSDOCS_eigasai/



◯映画の方でもイベントのお知らせが近々ありそうです。



◯新しいウェブサイトなのですが、私が見切り発車でケータイ、タブレットサイズを調整してない段階で出してしまって、今また非公開にしてあります。。!
近々イベントのお知らせも含めて更新できたらと思ってます。
https://yoknahasegawa.com


目標的には、すでにある作品、例えば「イリュミナシオン 映画」等で検索してくれた人が辿り着くサイト、情報ページになることですが、こういうのの真正性がGoogleの都合っていうか、機械的なトラフィックに左右されるのっておかしくないかとよく思います。やりようはあるのだろうしそれを面倒に思っちゃいけないのでしょうが...わざわざ閻魔さまの前みたいに証明しなくちゃいけないのが精神的に辛いですね。

自分としては野良の方が自由にやりやすいし、隠れている方がいいし、わかってくれる人はわかってくれる、探してくれる人は見つけてでもくる。というのも真理だと思うのですが、一方で自分もそんなに情報に敏いわけではなく、映画を見たらきっと何かを感じてくれる、という人と出会う道筋を用意できてないのは制作者としては反省があります。

まぁこちらも、じわじわやっていこうとは思っています!


あと見切り発車という意味では、私はオンラインに一度記事を出してから推敲したりしてしまっているんですが、前回の記事も結構変わりました。🙏
記憶屋列伝1
www.centralgame.org/diary/7562712
​
◯最近は、「コスモ・コルプス」の編集をしていた。


今回は音声のことを考えずにカオス状態にした後、映像だけで編集した。
その方が映像原理での考え方や、シンボル操作ができるかなと思ったからだ。
しかしむしろ、ストーリーが私の中では一応あるし、音の次元での繋ぎがないので、なんというか、保守的な編集に。サイレント映画が表情をわかりやすくしているような感じです。時系列も、脚本のまま。

それだと心をあまり打たなかったので、どうしようかと思っていましたが、
抜粋映像を作る。
そうするとストーリーや脚本じゃなくて、結果的に「撮影された映像」やその集合が持っている、原理がわかってくる。
今回もそれをやってみてやっと呪縛から解き放たれた部分もありました。

全然関係なかったはずのショットとショットが響き合っているというのは、無意識に撮っていたものの共通点や、自分が持ってるものとは全然関係ない映像自体の化学反応の奇跡を目の当たりにすることにも繋がり、エキサイティングなことでした。

ここからが編集の本番ですが、次は音声を、手作業で全部コラージュしつつシンクロさせます(シンクする効果もあったけど、自分の場合はテイクで音声と映像、違うものをわざと使ったりするので...........)
​
もう長い長い根気のいる作業で、一方で一度始めると早朝までずっとやっていたく、それこそ日常生活や他のことが完全オフモードになるので、面倒、そういう人に変身したくない、本当ギリギリのタイミングが来るまで踏み込みたくない......という気持ちもありました。

今は、もうスタートしてしまっている感じがします。




◯写真家の細倉真弓さんと、バージニア・ウルフの『灯台へ』の読書会をスキマ時間ですることになった。岩波版を手に入れ、KINDLEでほぼ無料で英語版テキスト、audibleがあったのでダウンロードする。
今のところモチベーションが同じくらいあってバージニア・ウルフ専門家ではない二人でまず、スタートするつもりだけど、そのうち発展していけば良いなと自分的には思っている。

実は私はこれまでバージニア・ウルフの作品や人生についての情報を通ったことがなく、パッと読んで「意識の流れじゃないじゃん」と思って終わっていた。

私にとってすごいと思い没入感のある意識の流れは、ウィリアム・フォークナー『響きと怒り』のベンジーの章で、同じような文章を探して読みたいと思っても、存在しない。


旗は赤くて、牧場の上でばたばたとはためいていた。すると、一羽の鳥がその上にとまって、体を斜めにかしげていた。ラスターがなにかを投げた。旗は光った草と木の上ではためいていた。わたしは柵にしがみついていた。
「そんなにわめくじゃあねえってば」とラスターがいった。

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「あんたキャディをお迎えに来たの」と彼女がわたしの手をこすりながらいった。「なんだっていうの。何をキャディにお話ししたいのよ」キャディはまるで木のような、そして彼女があたしたちは眠っているのよと、いう時みたいな匂いがした。
なにをそんなにうめくだよ、とラスターがいった。小川へいきゃあ、またあいつらが見られるだよ。ほれ、朝鮮あさがおをやるだ。彼がわたしに花をくれた。わたしたちは柵をくぐって、囲い地のなかにはいっていった。
「なんだっていうのよ」とキャディがいった。「なにをキャディにお話ししたいの。」



この場合、イタリックの斜字は、別の時空間がベンジーの把握している時空間(現在)に突如として入り込んでいると自分は捉えて読んでいます。


またこのベンジーは外からみると、知的障害のある人物であり、実際にはうめいていたり、周囲とのコミュニケーションが困難である様子が示唆されている。けれど、ベンジーの内面世界で確かに反響しているもの、それが知性でも感情でもないかもしれないにしても、確かに個人的な何かによって選択追憶し現実生成していることが、その意識、心の中が、この文章では読める、という不可能なことが実現しています。(個人的には感情と捉えて読んでしまってますが)

そこでは感覚の始まりみたいなものが絶え間なく繰り広げられていて、誰かの言葉がベンジーの中に入ると、20年前の誰かの言葉と並ぶ。それを読むともうもの凄いノスタルジックで聖なる感覚があります。
一度失われたはずの時間が、ベンジーの中で完璧に復活するのです。


(同じ匂いを嗅いだとき、同じ色を見た時、またはなんとも言葉にできない瞬間をトリガーとして、過去の記憶が現在に入ってくる、プルースト的なことがベースなんだと思いますが、フォークナーは記憶という範囲よりもっと広い。なぜならベンジーにとっては、それが記憶とは判断されない、現在時なのだと思うので、時空間が入り込んできている。)

この時のベンジーの「わたし」という主語の感覚は本当にすごいなと思います。
全然違う時空間の統合者という意味でも、わたしが世界に純粋に生まれ続けているという感じでも。

ただ、これに自分が共感する理由は簡単で、自分で普段世界を感覚している仕方とものすごい近いです。フォークナーの「私は白痴のために書く」という言葉があるが、私も本当に白痴なんだろうと真面目に思います。
この旗で始まるところなんか、まるで撮られた映像で捨てられた部分みたいで、主体がすごく空洞で、見ることの目的がない、だけどやはり誰かの視点で、世界の動いているどこかを、誰かが見ていた、ということに、感動します。


前回の「記憶屋列伝」にも通じるものがあるけれど、いろんないろんな瞬間が「ベンジーの中」にあって、それは「純粋記憶」というほどの場所で、誰も知らないし、決して判断されて変化しない、そして消えない。それはベンジーが世界に存在し、感覚することで、ベンジーの世界意識の中で流れ続ける、自分にとってはこれが「意識の流れ」でした。(一方、翻訳言語の質に惹かれてる可能性も無きにしはあらずと思っている。私が読んだのは高橋正雄の訳。)

以前、写真のシャッタースピード(カメラが写真を撮る時に吸収する時間のながさ)を長くすると、明るいところで撮ると真っ白になる時があるが、「時」とは元々こういう真っ白なものものなんじゃないかと思いました。仮にそれを海として、それが川として流れ始めると、それが時間で、絵として映るようになる。この話は、今思い出したのですが、上の話とはあんまり関係ないかもしれません。でも、ウィリアム•ギブスンの「記憶屋ジョニー(Johnny Mnemonic)でも、最後はCondensation that drips from the geodesics(ジオデシックドームの結露からの滴り)を「聴く」シーンがあって、このイメージも書いておきたい。




一方で、ずっと、バージニア・ウルフの小説はきっと同じくらいのすごい瞬間か、感覚があるはずで、私が理解できてないのだろうということは感じていて、今回改めて調べたら、抜粋的な文章でも琴線に触れるものがあった。
というか正直、彼女の遺書を読んでしまった。なのでリアルタイムで読んで理解する意味とは違う、色々な奥底にある感情との関連付けが始まってしまっているという部分もあってなんとも難しい。しかしその決定的出来事のある世界線以外の可能性にも意識を向けつつ読みたいとも思っている。自殺しない世界線がハッピーエンドだ、とは単純には思っていない。if でもdoneでも、意味が圧縮されないようにしたい。

図書館でたまたまとか、学校で課題になったから読んだ本が、何か不思議に迷い込んだ道の記憶として残っているように、縁のある本になりそうだと感じている。

また私と真弓さんでは当然一つの文章を読み、感覚することも、理解することも違うだろうから、そういうことを勉強会の中で知って考えや感覚の仕方を深めていけるといいな〜と思っている。



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ジョルダーノ・ブルーノの既刊書  と記憶する人への個人的偏愛        記憶屋列伝 1

2/19/2023

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出版社の東信堂は、ジョルダーノ・ブルーノ全集の売り切れ状態になっている書籍に関して、デジタル化の準備を進めているそうです。これから刊行される本も含め、その重要な思想が広まることを望む。

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ジョルダーノ・ブルーノについては長らく漠然と、天動説と地動説がぶつかる時代に、地動説を唱えた何人かの中の一人、しかし最初の方の一人で、自説を覆さず、そのために火刑に処された人...、といううろ覚えの記憶しかなかった。

科学の本を読んでいても、コペルニクス、ガリレオ・ガリレイは出てくるが、彼は出てこない。しかし先日、ふと思い立ってその辺の流れで「あの、自説を覆さなかった人は誰だっけ」と調べ始めていたところ、気づくと「聖灰日の晩餐」に私も参加しており、その喜劇と真理の旅の中、一気にその思想を敬愛してしまっていた。『聖灰日の晩餐』は、
戯曲形式で、異端の嫌疑をかけられ、イタリアから放浪してイギリスに来たブルーノが、惑星や宇宙は真実どんなふうに存在して動いているのかについてイギリスの"知識人"との問答対決を行い*、ギャグ用の、話を落とす人がいたりして、(「取るに足らない人」というような名称だけど、飄々ともしていてちょっと道化師っぽい。)笑えるところも沢山ある。ヒューマニズム的な人間性と、宇宙性(地球上の自然はまた別の位置付けになるのか)と言うかけ離れたものが、彼によって結びつくような感じがした。そして、その後も色々読みたいと思ったのだが、岩波でも一冊しか出ておらずそれも絶版というのに驚いた。

*これについて後述するフランセス・イエイツは、『
ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』ではこう書いている
「このロンドン散策は虚構のもので、作中の晩餐会は当時ブルーノが奇寓していたフランス大使館で行われたのではないだろうか。コペルニクスの天体理論は本当にこの哲学談義の主題なのだろうか。それとも何かがこの理論によって暗示されていたのではないだろうか。」 

しかし一方で、唯一ブルーノの本を現在進行形で出している出版社があり、しかも全集。ネット検索すると、復刊ドットコムでの声とか、「ありがたい出版社」と感謝の声もあり、同時に代表作と言われている本など絶版でかなりの高値だったので、その出版社の東信堂様に、破れた本でもいいので定価で買えないか、あるいは再版を考えていらっしゃったりしないか、そして
ファンレター的な意味も含め、全集をとても楽しみにしているとメールを送らせていただいた。
するとお返事があり、なんと、現在売り切れになってしまった本のデジタル化を進めている、それはニュースのページでお知らせされるとのこと。
そしてさらに、『英雄的狂気』が売り切れになってしまったかと思っていたが一冊あり、帯が破れていたのでそれを取り寄せて、架け替えて送っていただき...
非常に感動しました。


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ブルーノについて調べている時、こちらのサイトを拝読させていただきました。

http://saiki.cocolog-nifty.com/shoka/2008/11/post-905b.html
​"神は無限の中に、無限を通して我々に感じられるのです。どういうことかというと、我々は無限を知ることはできないが、無限は有限との切点において、その有限の中に無限自身を映す"


ブルーノは科学者というよりカトリックの修道士で、哲学者と紹介されている。
同じく神を考えることで宇宙を考えた人にクザーヌスがいるけれど、その二人の考え方の違いなど勉強になりました。
クザーヌスは、神は無限であり、宇宙は有限であり無限を知ることができないと、
しかしブルーノは、有限と無限との接触点に、自然が、宇宙があるのだと、そしてそれらを通して無限を見ることができると


http://editus.co.jp/BG_II/j_shimizu.html

https://www.kousakusha.co.jp/NEWS/weekly20100518.html

http://editus.co.jp/BG_II/j_shimizu.html​

コペルニクスも太陽を中心にしたネオプラトニズムの範疇から逃れられなかったが、ブルーノは宇宙には中心はなく、逆に言えば何処でも中心になりうると当時考えた。現代の宇宙もこのように考えられている。ガリレイが宇宙を望遠鏡で見たのは1609年(広〜くみよう、ガリレオガリレイ で覚えている)ブルーノは1600年2月17日に7年の獄中での生の後、亡くなったという。説明として、幾何学的な補助線の引かれた天文図が「聖灰日」の中にもたくさんあるけれど、その論理の積み重ねで宇宙について正しい認識をしているのに本当に驚かされる。物質が介在しない不思議な視力。
宇宙が機械の力で観測されている現在、それらの図の美しさは神秘的な賭けにも感じるし、神が反映された自然への美的信頼にも感じる。

また、これも他の方も書いていらっしゃったけど、外国人に対する思想もとても示唆的。「聖灰日」でイギリスの人たちが外国人であるブルーノらに街で暴力をふるうシーンがあるのだが、ブルーノの結論は「イタリア人はこうじゃない。外国人にとてもおおらかです」と。それがイギリスやイタリアだけじゃなく現代の情勢に刺さる感じがある。


そう言うわけで、やっときちんと知ることができたブルーノだったが、実は記憶術のことを調べていたときに読んでいた文章に何度も出てきていたことに気づく。こないだ高野山で得度を受けたお坊さんでもある優子ちゃんとも話したけれど、空海はある言葉を何度も唱える修行をして記憶力を高めたという。最近サンスクリット話者たちの灰白質が発達しているという記事を読んだので、空海がやったのはそういうことではないかと思っている。ブルーノはのちに投獄されたことからも明らかなように、教会から見て問題のある人だった。彼の中にあったものは焼き捨てられなければならなかった。ただ、放浪していたことが功を奏し、外国での著作が今の時代に遺っている。そしてその内容は驚くべきものだ。だから、彼を知ることで、失われたと思われている叡智に近づくことにもなるのかもしれないと言う期待があるし、全集も、まだまだこれからの刊行も多いけど全部読みたいなぁと思う。
またフランセス・A・イエイツという研究者の『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』-
を工作舎が出している。(
『記憶術』も)ブルーノの場合、研究者も静かに熱い人が多い気がして応援したくなる。
フランセス・イエイツが結論をどこに置いているかまだ読めていないのだが、タイトルやレビューなどから感じるものがあり、かなり楽しみ。

*追記:今読んでいるのだが、イエイツの本で、どうやらブルーノが(自由主義的な人なだけではなく、)「ガチな人」だと言うのがわかった...ハッキリいうと、キリスト教の世界において、ヘルメス教(キリスト教が滅ぼしたはずの自然崇拝的なエジプト宗教)の復興を考えていた人。そしてルネッサンス期の魔術師。でもそれでも太陽信仰になるはずなので、宇宙に中心はない、という彼の考え方がどの辺から来るのかはまだわからない。
古代神学の流れについてこれまでピタゴラス派とか話題に出たことはあったが、全然興味を持ててなかった。真理だと思えなかった。しかし、ブルーノほどの人の考えとなると、俄然.........

プラトンを三人目の古代宗教の伝達者と、宗教的に捉えるのはなるほどと思った。確かに哲学と言われているから哲学と思ってきたけど、神から伝えられた世界の真理という時、イデアや洞窟の比喩ほど納得できて、ヒューマン的でなく(掟とかはヒューマンぽい)、どこから来たのかと思う考え方はない。

しかし当時、キリスト教全盛期の中で、ヘルメス教が知識人の中で流行っていたというのはどんな感じなのか、何が動機なのか(デモニズム的な操作願望なのか...それとも真理の追求なのか...)まだイメージが掴めない。しかし今よりも魔術というものが生きていた時代であったことはわかる(し、ニューヨークとか行くと普通にナチュラル志向のものも取り揃えた魔女用のショップとかがあってすごい混んでるから西洋の伝統なんだろうけど)

色々検索して見つけた凄く勉強になるサイト...
https://bh001.sakura.ne.jp/cosmologia.html



私は具体的な意味での記憶というものにとても興味があって、自分の作った映画全部、記憶が色々な形で使われているし、映画(シネフィルの大量記憶、映画鑑賞の曖昧な記憶)、短歌自体や、歌人の記憶、稗田阿礼、ギブスンのJohnny Mnemonic、Sarah KaneのCleansed(ボディメモリー)、DNA自体、(空海、阿頼耶識、、ボルヘスっぽい感じ、タロットのシステム)...に惹かれるのもそれで、特に自分のものでない記憶を大量に詰め込んでいる人に、ものすごく興味がある。ギブスンはおそらく、コンピューターの時代だったので、それを肉体化したキャラクターが生まれたのだろうけど、この時代に改めて読んでも(個人的に)魅力的な内省をしており(I'd spend most of my life as a blind receptacle / how hollow / sat and sang other peopple's knowledge, synthetic languages I'd never understand for three hours..、I'm a very technical boy. )それが、他の人もそうなのか、自分独特の何かなのか、よくわからない。アンドロイドやビッグデータもいいけど、Johnnyの場合はデータセキュリティ関係のキャラクターでスタンドアローンで「この頭しかない」のがグッとくるし、阿礼も全部話さないと(歌わないと)いけないというのが、大量の記憶と比べて肉体的な限界とかフラジャイルさ、また希少性があることが好きなのかもしれない。

ある人たちが、まるで無限のように記憶をできるとして、それは記憶することで聖域に、「無限」に触れる能力があるとも言え、
記憶する力自体、与えられたもので、自分ではコントロール不可そうでも、誰でも努力次第で持てそうでもある。
そして人類とか生命とか宇宙の創世単位で多くのことを忘れているはずという気持ち、感情がそれらの魅力の前提としてある。(だから阿礼なんかは思い出す欲望と世界創造が直接繋がってる)

阿礼の場合は、私は、何度説明を読んでも、なぜ古事記の編纂プロセスで彼女の「記憶する」「思い出す」役割が必要だったのかが理解できない。しかしそのミステリーにとても惹かれるし、「記憶の聖性が重要視されていて、人の体を一度通した記憶を、思い出すことが必要だった」ということであったらすごくいいのになとも思う。


多分これもフランセス・イエイツの話だったと思うのだけど、記憶のための劇場について知った時、また高い記憶力を持つ人たちがそんなふうに場所とリンクして記憶しているということを読んだ時など、その場所は何処にあるんだろう、現実の空間に物としてあるとしても記憶のインデックスと一致してるってなんなんだろうという気持ちにさせられた。他にも記憶については色々感じることがあるけど特にバシッとした答えもなく、取り留めもなくなってしまう。ただそのうち何かまとめてみたい。


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コロナで何処へも行けなかった時、家で山井君とシモーヌ・ヴェイユの『科学について』の読書会をしていた。本をコピーし、ページを割り、毎回担当を交代して担当者が全部わからないところを調べてくる、という形でやっていた。
しかし、途中で話の内容が確率についての記述に入って、これは数学の知識がないとヴェイユが言っていることが正しいのか自体がわからないなと思い、結局4回くらいで止まったままになっている。
結果、その時勉強したほとんど具体的なことは忘れてしまっているが、それでも量子論批判という今では誰も言わないし発想もしないであろう考えの大きな価値、太陽と影と人とか梃子とかダンスとか、幾何学的な色々なイメージと語り方を遠い記憶のように覚えている、(今度カルロロヴェッリがそのままのタイトルの本のKindleが出る*訂正 3/9)アナクシマンドロスという名前とか、その人の、ー翻訳が良い感じに謎めいていただけなのかもしれないがー贖いあうために動きつづける世界という把握、ギリシア時代の、世界の美と調和を見出すために存在した幾何学の感触。ヴェイユの、厳密な論理とポエジーの融合した冷たくて熱い言葉は官能的ですらあった。そしてそれがなかったら自分は数学にも全く目を向けなかったし、別にそれでいいと思っていた。
真弓さんとこないだお話しした時に読書会をしようということになって、たとえばたった一回で終わるとしても、きっとそれは何かになるだろうと思った。それが「(最近別の方に言われた言葉)売れるかどうかなんてわからないけどさ」、
 
それはそうでも、これを書いていて、『科学について』もこの後きちんとまた読むつもりになった。
科学の信仰以来、多くのことが可能になったが、同時にその狂信により、多くの可能性が傍に追いやられ忘れられている。

ヴェイユについて、もう一つ、多分『神を待ち望む』だったかと思うんだけど、もしかしたら『科学について』だったかもしれない。とにかくヴェイユの書いた文章と、同じ時に読んでいた、オルダス・ハクスリーの『永遠の哲学 The Perenial Philosophy(1945)』(古今東西の神秘主義者の思想を引用抜粋し、神的な実在を認識した人間の思想を研究した)の中に、共通する箇所が偶然には過ぎるほどハッキリあった。本人の記述の部分で、行単位だが、ほとんど同じ文面(思想的結論)もあったと思う。でも、年代を照らし合わせても、ヴェイユは1943年に亡くなっていて、1947年に初めて本が出版されているらしい。国も違い、ヴェイユは無名だったはずでもあり、どちらかがどちらかのノートや本を読む可能性は皆無に等しかった。読者も違うだろうし、誰か気づいている人は他にいるだろうかとQuoraで聞いてみたところ、"戦争と西洋思想の限界の時代"という回答をもらった。『科学について』にあるような人間らしさや美と切り離された科学の暴走が、一段と激しくなってくる時代だったのだろう。確かに似ている部分の内容的にもそうだったので、そうなのだろうとそのまま納得した。
二人は同時代に、博識ゆえに何冊も同じ本を読んでいて、同じ問題意識と結論を別々の国で持っていた。しかもそれらは全体としては全く違う方向の著作物を二人に書かせた。ヴェイユは原因不明の激しい頭痛に悩まされていた。ハクスリーは極度の弱視が治り、薬物も含めた意識の神秘主義的な探究へと向かった。今はインターネットがあるし、こういったことは大して不思議でもない。むしろこれからは、前時代の人のように、ジョニーのように、いかに切り離された記憶でいるか、が大事な気がする。意識すら覗かれるあるいは操作される時代が近いかすでに来ている。それでも繋がる時代精神の方に、巨大な記憶の存在を感じ、興味がある。


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"The Rock funeral" , SHEENA AND THE ROKKETS KEEP THE ROCKIN' !!!

2/8/2023

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☜素晴らしいドキュメンタリーです。。

SHEENA & THE ROKKETS 公式チャンネル
HTTPS://WWW.YOUTUBE.COM/CHANNEL/UCQ2MQ0ZGBDCZMZJG15LR5BW


バンドや家族の歴史がギュッと詰まっている。みんなの小さな頃からの写真が可愛い。ナチュラルボーンロッカーのようなシーナさんがボーカルを始めたのが、ご結婚してから、30歳でというのに特に驚いた。




​
2023年2月4日に、代田橋の『星かげの迎賓館』を会場に、Sheena & The Rokketsの 鮎川誠さんの「ロック葬」が行われると、私の母から連絡があった。「お友達のお父さんだよね?」と..
ニュースを普段全然見ないのに、大事なことは周りが教えてくれるのかもしれないとも思った。
それでも、色々なことが繋がり、みんなが大変だった一カ月のことなどを知ると、気づけなかったと思った。エゴだとも思ったけど、なんでもお手伝いしたいと思っていた。それを伝えると、純ちゃんは呼んでくれた。
私は純ちゃんの友達で、その視点でどうしても色々なことを見てしまうし書いてしまう。また、当日見ていない場も沢山ある。
ロック葬に関わった人たちみんな献身的に、それぞれ働いていた。その中でも偶然出くわす、公と私の間にある言葉や佇まいや関係性、エピソードがたくさんあって、心に残った。鮎川さんの元に集まった人たちとの不思議な気持ちの繋がりも感じたけど、ただそれは具体的には書いていない。


喪主は長女の陽子さんで、次女の純子ちゃん、三女の知慧子ちゃん(ルーシー)をはじめとするみんなで寝る間もなく準備をしていたそうだ。さらに大きな家族の、いつものスタッフの仲間の皆さんも大勢集まっていた。


ロック葬は、とにかく慕う気持ちに溢れていた。
誠さんからの愛、シーナさんからの愛も、確実にその場に満ちているといま思い返してみてすごく感じる。

来てくれる方々のために2000部、純ちゃんが急遽インタビューやエッセイ、記事、たっぷりの写真などが掲載されたマガジン『月刊 鮎川誠 STAY ROCK vol.3』を作り、それを配り尽くした時のために更に特製クリアファイルを作り、さらにそのあとのためにポストカードを作っていた。集まった方々はみんなでそれを袋に入れる作業をし、それが終わると、訪れた人を迎える二つのお部屋の飾り付けをした。部屋は、レコードやギターやポスターや花やオブジェで埋め尽くされていた。一つ目の部屋には、真っ赤な花でハート型に縁取られた大きなシーナさんの写真。

これはとても個人的なことだけど、みんなで袋に入れている時に、「こんなことしてるとライブみたいだよ」と純ちゃんがいつもの笑顔で不意にこぼした言葉が心に残った。


午後からはプレスの方々、交友関係のあった様々な著名人、芸能人の方々がたくさん弔問にいらっしゃった。
​そして外へ出てみると、最後の一般参列は、代田橋の駅から続く、すごい行列。
ライブハウスのご友人の方々が路上に出、迷いそうな場所ごとに立ち、案内をしていた。
駅前の古本屋さんではシナロケが流れていて、満月で、梅の蕾が膨らんでいた。

lloyの優子ちゃんと息子さんのじゆうくんと一緒に並んで、おやつを食べながら話せ、楽しかったけど、振り返ってみると約2時間並んでいた。案内をしている方の一人が列のみんなに向かって言っていた。
「ここだけの話だけど、(...素敵なことを言っていた。ネットでは誤解されるかもしれないこと、でも、大きな権力の下で警察も味方につけて、仕事でここに立っているわけじゃない人が、自分で最善のことを考えた結果、行動して、言うこと....)....もしかしたらこれ以上の人数は入らないと言うことで途中で打ち切りになるかもしれないの。だけど、少しでも多くの人に、(鮎川さんの)隣を通らせてあげたいの。だから早く進んであげてね。」
それを聞いて少しずつ少しずつ前へ進みながら、「何か素敵な人だね。」と優子ちゃんが言った。
見るからにファンだとわかる革ジャンやシナロケのシャツの人たち、子供連れの家族、一人の方など。そこに集まる方々の静かで誠実で辛抱強い、熱い思いを間近で感じた。

優子ちゃんがふと、
「そういえば、今日は立春なんだね。立春にお葬式をできるって、本当にすごいことだよね。はじまりの日だから。
こんなにみんなが幸せな気持ちになれるお葬式ってないよね。」
と美しい声で言ってくれた。
じゆう君も、他の子供達も、この日のことをどんなふうに思い出すのだろうか。
私は私で、長い列の上の満月寸前の月に、
「獅子座の満月。まさに(King of Rock'n Roll)」と驚いていた。


​

Picture




この動画は私の祖父母が住んでいた思い出の街にある、新生姜ミュージアムで、お客さんいっぱいの会場で、最前列で撮影させてもらった。ファンタジックでポップな雰囲気だったのに、誠さんがカメラの前でどストレートに渋くて荒々しすらあるギターの演奏をされた時、文字通り全身にゾクゾクッと衝撃が走った。



その後、純ちゃんに、
「友達のお父さんに言うことではないけど、誠さんてものっ凄くセクシーだよね」と言うと純ちゃんは
「そうだね。お父さんは少年そのもの、という感じでタイプは違うけど、"セクシー"って言ったらセルジュ・ゲンズブールかお父さんか、みたいな。」
としみじみと、しかし日常的なトーンで言っていて、改めて感嘆だった。


このライブビデオは、純ちゃんがいいよと言ってくれたので、バックステージのタバコを吸っている姿から撮影させていただいた。
誠さんが川嶋さんの手を「冷たいね」と握っていたので、仲良しですごいなと感じた。


撮影後、他の固定カメラと手持ちで編集相当難しいし、場を乱してしまったかなと思っていたのに、純ちゃんがかえってすごく引き込まれる編集をして、私の撮影も取り入れてくれた。
デジタルだけど、フィルムの切れ端なども映像のリズムとして使っているような感覚というか。。本当にこれしか出てこないのだが、映像自体は「パンク」で、しかも何か大円団の感覚があって、最後のクレジットは感動的だった。

​また、佐渡で純ちゃんたちといた時に、芭蕉の句、
「荒海や佐渡によこたふ天の川」
をお父さんがメールで送ってくれたと、教えてもらったこともあった。風流な方。そんな人がいることで、その言葉で、
芭蕉の時代とも、目の前の海や自然や時空がクロスするような感じがした。

​Sheena & The Rokketsの撮影をしていると、カメラよりずっと重い楽器を持ち、2時間も舞台に立ち続ける凄まじいエネルギーを貰っていたのか、カメラの重みや痛みを感じなかった。目が腫れていた時も、シナロケのライブ後にほとんど治ってたこともあった。

......ただ、私の直接的な関わりは、ライブ終わりに、いつも気軽に「ヨクナ、お疲れ様!」と声をかけていただけたくらい。
それでもすでに、これ以上なく幸せな気持ちだった。
そして、こんな機会をいただいていたことを、大切な家族や仲間の輪の中に入れてくれることを、改めて感謝したい。
そして、率直に言って、純ちゃんと、純ちゃんが出会わせてくれた人たちと、これからも、関わって行けたら、とても嬉しい。

​

​

一番好きなミュージック・ビデオでよく観ています。皆黒づくめで匿名的なファッションなのにだからこそ個性や眼鏡を取ったときのシーナさんの眼差しが際立っていると感じた。ダンスも可愛い。この眼鏡を探した。
​
SFシナロケのライブの時、最初は鮎川さんがボーカルで、男三人で渋い曲を演奏してからルーシーが華やかに登場するのが、バンドの音楽の多面性を味わえてすごく良かった。

​MVは
冒頭がSFノワールっぽくて面白い。(ゴダールアルファヴィルとかメルヴィルっぽいけど広角のショットが異空間性あって色が生っぽい白さで素敵。)


​

あとこのYou May Dreamの動画が臨場感があって、バンドがすごく近く、見ると人生が変わる人も大勢いるのではないかと思いましたが、埋め込み不可でした
https://www.youtube.com/watch?v=bpCR3uWASSY







また、個人的なのですが、シーナ(Sheena)さんのアルバム『いつだってビューティフル』もとても好きです。
ルーシーがライブで歌っているのを聴き、好きになりました。
細野晴臣さんのプロデュースで、打ち込みのサウンドとシーナさんの歌声と、切ないけど甘ったれていないストレートな日本語の歌詞がすごく立体的で、全体的に夢心地でキュンとします。
「ビューティフル」がすごく好きですが、全曲好きです。ジャケも素敵。CDやレコードで欲しくなってくる。そして、これらの曲を聴くと自分の脳内で勝手に映像が思い浮かんでくるのですが、出演はもちろん、シーナさんと誠さんです。
​私も、ロケッツ祭は続きます🚀


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新しいウェブサイトNew websiteと謎の反骨精神と西暦零二千二十三年はじまりのうた

1/10/2023

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​​明けましておめでとうございます。

突然ですが、

​新しいウェブサイトができました🧩​
NEW OFFICIAL WEBSITE

▷https://yoknahasegawa.com/

(デザイン:山井隆介  DESIGNED BY RYUSUKE YAMAI)
​


ドメインはシンプルに、yokna~(名前).comにしました。

前々から、Central Gameというサイト名にしているからか、Googleでやっても一ページ目にも上がって来ない..と感じていたのですが、それと関係があるのかないのか、11月頃から山井君が実験的にポートフォリオを作り始めてくれて、あれよあれよという間に集大成的なページを作ってくれました。

図鑑的に、Yokna Patofa〜長谷川億名(2005〜2023)という名義で作ったものが集めてあります。
山井くんのアイディアで、映画、映像、写真、テキスト、MIXTAPE、などなどその時々の興味で色々やってきたことを、年代順ではないルールで並列させました。それぞれのページに作品説明があります。


Picture
yoknahasegawa.comフロントページ

こうやってみると、不思議な線形を描いて不時着しているようなものばかり、・・・

Central Gameという名称もcentralgame.orgというドメインも気に入っているので、Webサイトをファサード〜本館、こっち(Central Game)を奥の間的にしておき、ブログはその分これまでよりも自由に、引き続きここで書いていくつもりです。

あと自分は匿名交流のコンセプトは好きなのですが、twitter,FB,IGといった大手SNSが好きではなく、恐る恐る現実の延長とか
広告的にしか使えないため、結果やらなくなっています。ゴミになるか宝物になるか紙一重だけど手紙や写真やタブロイドの束がなぜか好きです。

いわゆる"メタバース"も、好きなはずなのですが、自分が夢見ていたぼやぼやしたものに勝手に名前をつけられ、強要的なまでに販促されているものに身を任せたくない・・。
ただもちろんウェルメイドなシステムを利用して反則的な冒険をする人たちはいるので興味はあります。
多分もっと瞑想的だったり体ぐるみの圧倒的体験を待っているのだと思う。
奥浩哉の「01」という漫画みたいに、またはジョンCリリーのタンク✖️テクノロジーみたいに、かつ安っぽくない、「物凄いゲームセンター」みたいな体験施設で全世界ゲームができて、しかも死んだ人も学習されているのでその中で色々な時代のアバターと再会できて、しかも自分にそのゲームの天才的才能があったらいいのになぁ...と常々夢想していますが、今生まれてくる子供達にとっては不完全性も含めて、自分の世代の8bitゲームみたいな異世界ノスタルジアの形成場になるのだろうからそれは面白い。脳に接続するのとか今やりたいかと言われると、まだ自然も完全には無くなっていないし、火星にいる人と抱き合いたいわけでもなく、自分には間に合っているのだが、そのうち「人間的に生きるためにそれが」必要な時代も来るのかもしれない。GibsonのBURNING CHROMEのショートストーリーみたいに「世界」を「想像」してそこでみんなを遊ばせるだけでスターアーティストになる時代とか、自分なりにも描いてみたい。でもいずれにしても「娯楽」」は餌でしかなくて、色々な経路も、タネが宇宙移動をするための人や接触のデジタル化に行き着くのだろうと思っています。でもそういった銀河もいつかは別の銀河と一緒になって...と考えていくと、目の前のいまこの時の地球に惹きつけられている一瞬は、決してゴミではないなぁと逆に思うのです。



▷yoknahasegawa.com



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最近は熱を出し、全身を針で刺されるような痛みを感じたが、体温もほどほどだったので、薬を飲まずにそのまま耐えていたらありがたいことに一日で平熱になった。急いでいる時、手に負えない時は西洋の薬が心強いけれど、余裕があるときはなるべく体に戦わせるようにしている。しかし、あのまま熱が下がらなかったとしたら相当辛く、不安だろう、と思う。
一応一週間は家の中にいて、出汁からちゃんと取って作ってもらったおかゆやカロリーメイトゼリーをいただいて、日頃の自分の内外での仕事の心を反省したりしていました。

痛みでうなされていた時に、「このままだったとしたら、何がわが人生の悔いか?」というのを無意識に考えていた。その時に浮かんだのが自分でも意外だったのだが、短歌だった。「せっかく作ったのに、誰にも読んでもらえないのが残念。自分で愛唱できるものを全然作れていなくて悔しい」という純粋すぎる訴えが苦しみとは全然関係ない透明な領域に、繰り返し繰り返し回帰してくるのだった。実は一昨年に一度、添削をしてもらっていたことがあったが、全く数を作ることができず、やめたきりになっていた。
それもあって二日目以降は短歌の本をベッド上で読んでいた。二冊目に、現代短歌界の重要人物、穂村弘の『短歌という爆弾』を読んだ。皆が通るものを通りたくないと思いこれまであえて避けていた、が、この本で今の自分がアクセスできるものは非常に多かった...。本だけど、パソコン通信やファックスなどさまざまなメディアを駆使していてその時代感も面白い。そして、一章丸々取り上げられている早坂類という凄い詩人、歌人のことを私はこれまで全然知らなかった。
早坂の歌を、特にキンドル版の『ヘヴンリー・ブルー』で顕著だったのだけれど、「日本語の一行自由詩」として読んでしまった。そんなものがあるかわからないけど。七五調は日本語の美しさ、日本語の遠い記憶、のように奥で揺れているだけのような気がした。凄まじい歌は歴史上沢山あるけど、それらは全部「短歌」の仲間で、それが救いでもある。でも、早坂の場合はそこからすごくはずれていると思った。生きている人間が歌っているものと思えなかった。ページをめくるたび、一行が生々しくしかし美しい誰かの魂のように現れて、その周囲は救い難いほど深い深い淵になっていた。



子供の頃、プールの近くに大きな本屋さんがあったので、そこである詩と写真の載っている文庫シリーズを見つけて、毎週土曜日に一冊ずつ買っていた。私がスイミングスクールをやめても母と弟についていって、弟が教室に通っている間、私は車の後ろで寝転んで本を読んでいた。昼下がりの1時間くらいだったろうに、なぜかものすごく退屈な記憶、耐えられないほど長い長い時を過ごした感覚が残っている。そして気づいたら夕暮れが取り返しがつかないほど近くに来ている。これがまた辛い気持ちになるのだった。帰り道、小さかった弟が、母が、車の中で、毎週、どんな話をしていたのか。どんな様子だったのか。全く覚えていない。「ふざけていた」とか「ちょこんと座っていた」とかそういうのも。「いつもどんな風だったんだっけ?」。今なぜかその忘却をものすごく悲しく思う。とても思い出したいと。プールにアイスの自販機があって、それを食べていたかもと想像してみる。カラスも飛んでいたかも。砂利道では車は揺れていたかも。
その頃の詩と世界の混ざった、なんとも言えない主観的な感覚を思い出したのだけど、もっと鮮明に目の当たりにでき、さらに体を失った言葉の無間地獄にあるような魂のリフレイン性や、かと思えばシティポップのような「トレンディ」な時代の空気感を生きている一人ひとりの人生が透視できてとても好きだ。


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Webサイト資料用に整理したら写真が大量に出てきた。これは2018年の5月
短歌資料用写真。シーラカンスは美しいな。名が。骨格が。みんなも演出の仕方をわかっていて、深海の色にいつも取り巻かれている。
短歌を作っているときはきれいな画像が結構集まる。3枚目はレメディオス・バロ。Vesselのアルバム、『Queen Of Golden Dogs』や ピンチョンの『49の叫び』など、好きな作品のモチーフになっているので気になる存在です。やはり「隠されているもの」に一番萌えてしまいます。「この人絶対タロット作ってるな」と思ったら、やはりあった。バロのタロットをただ引いて眺めているだけでも、すごくインスピレーションがあって良さそうなのですが...。

あと前々回くらいに書いた「核融合」ですが、先日アメリカで実験成功してましたね.....。
なんだか象徴的な名称で時代を感じます。
今度会うときにはおじさんにまた聞いてみたいです。

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コスモ・コルプス全撮影終了(涙)

11/11/2022

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映画『コスモ・コルプス』の撮影が、11/9の早朝に終わりました。
リサーチも含めると、一年半。撮影だけだと、一年と2ヶ月の旅でした。
泣くかと思ったけど...、泣かなかった。
まだまだ目に見える道のり(ポスプロ)がありすぎて.........そして、疲労困憊でした。
でもとにかく、撮影は終わったのだ!素材はある!新しいフェーズへ行けたのはよかった!
とりあえず、宿根木でしたので、前回も見つけた石に、関係者全員の幸せを願い、帰路へとつきました。

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前夜は皆既月食だと、野澤ケンさんやうちの母からメールが来た。
その夜は小木の川や宿根木の火星地帯の撮影だったけど暗すぎて無理で、みんなで銀河を見上げていた。
隠された月はまだ赤く丸く、象られていた。
月の光が消えたことによるものだったんだろうか?砂つぶのように広がった星の一帯は、どこまでも見入っていけそうだった。さらに遠くに、向こうに、何があるのだろう。こんな不思議なものを見ている、自分とは何なんだろう。そんな感覚に自然となった。
佐渡在住で星を見慣れてるはずの裕子ちゃんも、「天の河が凄いね!」と何度も言っていた。
去年の夏、虫崎に泊まった時も、星(特に100メートル歩く間に何個も見る流れ星)に驚いたけど、宇宙では今この時も、本当に多くのことが起こっている。

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今日はPCのカオティックなデスクトップを整理したり、勉強していた。これまでは頑固にプレミアとたまにFinal Cutで編集していたけど、今回からはダヴィンチにする必要があり、
理由は、私のカメラがSigma fpなので、Cinema DNGという一番良い規格で撮ると、パラパラ漫画みたいな写真の状態で大量の映像が入っていて、プレミアでのプレビューの仕方がパッとはわからなかった。また面倒だけど、今回はグレーディングもちゃんと学んで、新しい道具も使ってみたいなという感じだった。
正直いうと、とにかくお金がかかるので、今回のこの作品で映画や映像制作全般をやめたいと思っているのだが、それにしては機材を買いすぎて、矛盾した状態にはなってしまっている。いずれにしても、あと数年は、この映画と付き合って行くことにはなる。

これをいうと驚かれることもあるのだが、イリュミナシオンはNikon D600で撮影し、その後はFujiのX-T2というカメラを個人的に使っていた。一般的にはキヤノン5D→sony αシリーズ、ブラックマジックなどが人気だったけど、周囲とは別のカメラを使いたかった。T2で映画制作は難しいかなという印象だったけど、自分と道具の関係(ときめくか否か)の方が大事だった。
コスモ・コルプスは、他にもさまざまなカメラを五つか六つくらい使っている。
それらをどうまとめるのか、また、パート自体もいくつもあるので、それらをどう一つの作品として落とし込んでいくのか、これからはそういったことを考えていく必要がありそう。今のところは本当に混沌。でも、いったいどんなことになるのか、どんな実験ができるのか、武者震いしている。



整理しながら撮ったスクショ。→

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ぜぜちゃんの手のうちのトカゲ
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あけみさん。教会で撮影時
Picture去年の夏、佐渡。フル装備





​この映画を制作中に色々な変化があった。

量子論を本質的に理解するために、(幼年期に即、また完全に諦めた)数A~線形代数までの問題集を買った。ふと(x+y)^2や 3を証明する方法を自分で考えてみようと思って、(脳裏にヴェイユの「科学について」の中にある、ギリシアの哲学、数学に関する描写があったのだが)、図形や立体で一辺を
(x+y)の正方形、立方体としてやってみたら、できた。感動した。理系の人々にはバカバカしいことかもしれないが。公式って歴史なんだ、相当凄いツールだなと...
 
目標は、ペンローズ「皇帝の新しい心」ら辺をポエティックにではなく、読むことである.......ガチな本を読みたい。

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コスモ・コルプス『未来縄文編』撮影報告、日誌 ✏️ *付録を追記。

9/20/2022

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​先週、未来縄文編と仮題しているパートを撮影した。

晴れ男のヤマモトユウセイ君のおかげで、天気予報は雨も多かったが、佐渡は全日、夏のような快晴と言ってよかった。(今日また台風が通過して、秋が来た感じがしている)

ユウセイ君は、10年ほど前に撮影した初めての映画、『イリュミナシオン』という映画に、「キクチ」という役で出演してくれている。
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キクチ(ユウセイくん)の『イリュミナシオン』での輝き(淡々とした中で調和を破りたがり、破る、一方でだからこそ映画全体の抑圧をその分一番表現して、独特な気持ちになる存在感)をびっくりしてくれた人は自分の周りでも多かったが、今回タイヨー役で再び関わり、撮影させていただいて、やはりミラクルを起こす人、心底創造すること遊ぶことを欲し、それらをしている人だと思った(し、自分はそれを絶対逃さないようにしようと思った)。受けたことのないような速い球、変な球を投げてきて欲しいのだ。

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しかし今回は対になる主役がいる。ミツキ役のしみずさきさんだ。
最初に彼女のアップをカメラから覗き込んだ時、凄まじく異次元に引き込まれた。"生まれたての雫のような黒い炎"、と言う感じで、遠い未来まで見通していそうな強さと、ものすごく寂しげな眼差しをただ見ていればいいというだけだった。本当にミツキと言う人がいるのを見ていると言う感じだった。

この二人と私は普通にコーヒーを飲むような友達だったけど、なぜか寝食を共にする機会があり、映画を作ってみて気づいたのは、潜在意識が非常に刺激される、そういった"人類が喪失した記憶"モードでの対話が可能、ということだった。
タイヨーとミツキがどんな人物なのか、「海」はこの二人の世界の中ではどんな意味を持つのか、そしてその世界は今の私たちの世界や時とどう繋がっているのか、たくさん話したような、全然話さずに済んだような不思議な感じだ。

佐渡での撮影というのもあってなのだろうか。

また、ゆうせいくんがプログラムをしてくれて、日本語とほぼ一音対応の「ヤマモト語」というものを作り出し、異語でのコミュニケーションも行っていたからだったのか。


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言語に関しては、元々は、さきちゃんが、アイヌやシベリアで使われている、『抱合語』を教えてくれ、そのコンセプトで作った言葉を劇中に話そう、というのが始まりだった。

抱合語  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%B1%E5%90%88%E8%AA%9E

意味が繋がり、長い一つの単語を生成していくと理解したのだが、その言葉が表すものや、見えている世界について想いを巡らすことで、まるで環境や自他の境界線がないような「未来縄文人」についての共通項を持てた。結果的には抱合語ではなく、日本語ベースの言葉になったけれど、作品全体に大きな影響を与えてくれている。また、非現実的な設定もある中で、言語があるということが、「未来縄文人」の実在を信じるとっかかりになってくれた。

Pictureコスモ・コルプス 未来縄文編ヤマモト語
また、この映画のハイライトの一つは、やはり『未来編』と同じく、山井隆介君の美術だろう。
そして、そこでのユウセイ君の身体の反応と、佐渡の自然だろう。

山井君の持ってるスピリチュアルな唯物論、恐いぐらいのカルマとダルマの絡み合いは、子供でも大人でも、ヒトの記憶とソーゾー力をとんでもなく刺激すると感じる。
シンプルなモノと人の体の動きのみで、進化の歴史、赤ん坊が生まれる瞬間などが目の前の光景に多重露光されているようだった。このシーンは、この記事には掲載していないが、公開するのがとても楽しみだ。

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また今回も、佐渡の南の方の「小木町」のゲストハウス、iroの横山裕子さんには非常に助けていただいた。
ゲストハウス Iro

https://posadairo.localinfo.jp/
https://www.booking.com/hotel/jp/iro-zuo-du.ja.html​


・・と、同時に、裕子ちゃんは現代編のメインキャストでもあります。
この記事の末尾にありますが、最後に現代編の、裕子ちゃんのシーンを撮影して、一年以上形を変えて撮ってきたこの映画の撮影は終了になります。
それはすごく納得のいくことで、この映画や撮影を、裕子ちゃんに最後まで見てもらいたい。これからはそこへ全力で向かっていきたい。


最後に、撮影は山井君に助けてもらいつつ、水中以外は、自分で行った。

まるで彫刻家が彫刻刀を持って仕事をするような感じだった。
どんなに肉体的に疲れていても、カメラと接していると無尽蔵に力が出てくるとも思った。(仕事が終わればお風呂に入れると思っていたのもあるが..)
自分はやはり撮影が一番楽しいことの一つだ、ということを認めざるを得なかった。(脚本を書くこと、世界観や人物について話し合うこと、編集も好きだが、撮影はやはり、初めて生まれていく世界を観る感じで、すごい納得-感動する。)
カメラ越しに見ることで、OKか否か、どのカットが次に必要か、はっきりとわかった。
さらに、自分の目-体、カメラ、演者やモノ、世界、が回路のようになっている感覚もあった。


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Art by Ryusuke Yamai 美術中に忍ばせていたのだが、おそらく劇中は判別できないほどの形になっているので、トリビア(?)
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ロケハン中に、玉ねぎの種の作業をしている方達を発見
Picture岩場を歩いていたら、誰かが祀っていらっしゃる岩を見つけた。上の空洞には小さな石仏のような石がある。
Click here to edit.

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Click here to edit.

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次回がCosmo Corpusの最終撮影になる。
その主な撮影場所である、
佐渡基督教会。

この、自然が向こうに透けて見える十字架を見たとき、地球儀の話を聞いたとき、また牧師の荒井さんたちや教会に集まる皆さんとご飯を食べたとき、ここで撮影することが映画にとっても自分にとっても必要なことだと、とても思いました。

映画を作っていると色々なことで本当に疲れ、答えが出ず、そういう基本的なことも忘れてくるのですが、何度でも出会いの瞬間に立ち返り、とにかく縁があり、あった、これからあるであろう、魅力がある人やもの、ひいては世界、の潜在能力を出せるように淡々と頑張る、そして、それらを見てもらうため、完成させる、「形にする」、ことをやりきろう・・、と、改めてこれを書いていて思いました。



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火とヒト、理系の家族たち、苺

8/31/2022

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以前書いていたはてなブログ、いろいろ理由はあるのですが、アーカイブとしてネット上に復活させました。
blog 2013〜2019(完)
https://yoknapatofa.hatenablog.jp/



前回金山関連で三菱のことを書いて、パワハラ体制のニュースとかもその後偶然見たりしたけど、同じくらい大きな科学系の会社に、自分の親戚で勤めている方がいて、その人だったらおそらく、原発を止めるという風には行かないだろうなとは思った。
小型化を進め、廃棄物の無害化を科学の力でする。吉本隆明も反原発反対(「反原発でサルになる」考」末尾に趣旨のまとめもあります)と言うのを最近読んだけど、理系の人は、被害者やリスクが一定あるとしても、技術への信頼、知識からの今後の見通しがあるのだろう。何なら労働者の肉体的な辛さも、完全自動ロボットができるまでの過渡期的なものという考えもあるかもしれない。でもその後が私にはわからないが。

一方には、「たとえば地球がダメで火星へ行っても考え方が同じでは人間は変わらない。安全だと嘘をつき、後から危険だったのを安全にできたとしても、嘘をついていたのは変わらない、全部同じ結論、消費的で壊滅的で、一部の人や環境を使い捨てる結果になる。人のマネジメントできる範囲を大きく離れ科学の力に頼りすぎるべきではない、もっと環境とも、人間同士も共存できるように考え方や生活を変えるべき、」という、ざっと書いてしまったけどそういう感じの意見があると思う。
私はどっちもそうだなと思ってしまうけど、原発が科学の成果だとして、そっち方向の人間にとっての未来(Cのない安全エネルギー使いまくる、廃棄物も全然怖くないからどんどん出す)がよくわからない。原発最高ってなって、代替エネルギーの研究も起きないなら科学的にも良くないのでは。もっともっととなってその次は。インドとかベトナムなどの若い国だったら考え方もまた違うんだろうか。


その親戚のお兄ちゃんは私が小学生の頃、アメリカでロケットを作るのに携わっていて、アメリカ製のたまごっちをわたしたちにお土産にくれたりした。また、アメリカの砂漠を家族を連れて縦断か横断したり、バイクをやっていて(摩擦で?)小指がなくなったことを平然と話したり、子供心に何となく変わり者だなと思っていた。
いつも親戚で集まると、挨拶のつもりで悪気もないのだろうが、私にとっては失礼なことを言われるので、一度母に「◯◯お兄ちゃんは無神経だから好きじゃない」といい、「変わってるからね」と母がこれまた平然と答えたときも記憶にある。
大学に入学した後の親戚の集まりで、私が哲学科に入ったと知り、近寄ってきて、私が当然すでに読んでいるだろうと思ったのか、カントの話をしてくれた。昔読んだけどどうの・・そして次の記憶はなぜか、お兄ちゃんが、「核分裂の時代は終わった。核融合できないと未来はないね。」と淡々と言っているところに移り変わる。
カントの話によほど興味がなく、核融合の話が突然印象に残ったのだと思うが、最近核融合は1989年から長年研究した結果無理だった、でも違う何かで無害化の実験に成功したと言う昔の記事
放射性廃棄物の無害化に道? 三菱重、実用研究へ(2014)

を読んで、ああお兄ちゃんが言ってたな、と思い出した。
(2023/1/10追記:その後、アメリカで実験成功とかのニュースを読みました)

数年前に私の叔母であり、このおじさんの奥さんであるお姉ちゃんが倒れた。危機一髪で助かり、私も実家に帰り、何度目かの母に連れてもらって病院へ行くと、清潔そうな部屋で丸坊主になったお姉ちゃんが寝ていた。
​頭にぐるっと入った手術の跡、傷跡も見せてもらった。まだ痛々しく、赤さが残っていた気がするけど後から聴いた話だったろうか。私はいつも黒づくめだが、この時ばかりは上海で買った七色全部入ってそうな服を着て行った。眠っているお姉ちゃんの近くに行って母と名前を呼んで、「遊びに来たよ」と言うと、お姉ちゃんが突然目を開けて、わたしたちを見て「あっ!」と言うような表情をして、でも、そのまままた気を失うように、目を瞑り、眠りに入っていった。目を開いてくれたのはすごいことだと思った。

お兄ちゃんは倒れた時や、入院後の状況について説明してくれた。お姉ちゃんは、ひどい頭痛が起こった後も、仕事を休むのをすごく気にしていて、すぐには病院に行かなかった。それは彼女らしかった。すぐに病院に連れて行かなかった僕のせいなんです、とお兄ちゃんは言っていた。彼は仕事を長期間休むことを願い出、しばらくずっと病院に付き添うとのことだった。本が大量にあって、病気や症状についての知識が医者をたじたじさせるほどのレベルになっていると言うのは後で聞いた。
お兄ちゃんは、痩せていたが、「本当に危なかった。やたら奇跡が起こる。」と笑って言った。
私が驚いたのは、緊急手術時のお兄ちゃんの行動だった。お兄ちゃんは、手術されている最中のお姉ちゃんの脳の血管を、モニターでじっと見ていたらしかった。
「死ぬ瞬間を、それをこの目で見てやりたい」と思ったからだったという。
私はその時、なんて深い愛だろうと、しかも妻の脳の血管を見て、看取りたいなんて、自分にはないすごく理系な感覚だと、すごく驚いたのだが、今こうやって書いてみると、別段不思議なことではない気もしてきた。誰か大切な人の生命が終わる時を、見届けて、自分の記憶に刻み込みたいという気持ち。

お姉ちゃんはその後、後遺症は残ったがとても元気になった。そして元々数学科の人だったけれど、母曰く、母が趣味(脳トレ)でやっていた、ものすごく難しい数独をバンバン解いてしまうようになったらしい。母はそれを、脳の機能の変化なのではと言っていた。
元通りとはいかない大変なこともたくさんあるだろうしお兄ちゃんのことなので話す時には淡々として包み隠さないが、それらは今回は全て省略して書いた。
​
考えてみると母も父も理系で、母は特に、シダの研究を学生時代していて、昔も数年前も一緒に散策すると花の名前や、「ホラ、あれが地衣類だよ、地衣類は〜」と植物のことばかりだった。今母は、いちご農家に修行に行っている。(二年目?)草冠に母で苺と思うと母っぽいと思う。
でも一番よく思い出すのは、ある時仕事から帰ってくると、「道で拾ったよ」と、白い紙の箱の中に蚕を持っていて、しばらくみんなで育てたことだ。車を道に止めて、桑の葉を、兄弟と母で取りに行った。繭になったけど結局、孵化しなかった。
小さい頃の私だけでなく大勢の人にとって積極的に好かれなさそうなシダも、蚕も、全然面白くなかった植物解説付きの登山も、もはやノスタルジーを引き起こす。

無理やりまとめると、プーチンの考えを、世界史に詳しい人の視点でみると冷戦とかソ連とかロシア帝国が見えていて、明かなものが全然私とは違うように、理系の人の世界観もだいぶ違う、イデオロギーの違いにも、そう言う性格あるよなと。そこには人間全体で助け合う、楽天性があるのではないかと。何となくQuoraの理系の人たちの考え方や、コメント欄のほとんど争いの議論を見ていて思った。全く同じ考えばかりの国だったらやばいと思う。その上で国という全体が進む方向、止まらない理由、「常識」などがあるとしたら、それはどういう種類の幻想なんだろう、新聞社が記事が売れるように煽っていたら日本が本当に戦争に突っ込んでびっくりした、みたいな戦前の記者の話、真偽は確かめてないけど、そういうこともあるんだろうなとぼんやり思った。多数決の方へ行くのか、よくわからない権力のある人たちの思う壺へ落とされるのか、理想主義でないこと、まことしやかな選択だからこそ多数になるのか?

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最近私は、『コスモ・コルプス』の、シナリオの最終稿を書いています。今日もまとめなければいけないのに家族のことをこんなに書いてしまった。昨日寝る前に、おじちゃんとおばちゃんのことを思い出していたのだ。ちょっと前は、おばあちゃんのことを書きたいと思っていたけど、何となく書けない部分もある。

撮影を始めてから今月で、一年がちょうど経つ。毎回色々な人に助けてもらい参加してもらい、お金もその度集めさせてもらい、少しずつ撮っている。

そのくらいの映画だし、次に映画なんていつ作れるかもわからないので、とにかく正直にやろうと決めている。

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佐渡滞在詩(セスティーナ遊びと断片) 、金山世界遺産の件

8/2/2022

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荒井さんとあきさんに連れて行ってもらった、すごいところにある浜辺
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ゆかさんちの屋根裏にフクロウが巣を作った時の探検隊。
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写真家の梶井照蔭さんの船に乗せてもらった、鷲崎の海
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佐渡の世界遺産の書類の不備の件、ほんとに今更なぜ??という感じだけど、メディアの強調して伝える祝賀一色即落胆一色みたいなのよりはもっと複雑である。地元の友人たちからは多種多様な意見を聞いていた。

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具体的には徴用工として、朝鮮、韓国の方達が当時金山で労働していた問題。
「危険だとしても、高いお金を貰って仕事をしていたんだから、何が悪いの?」という意見
(NHKのドキュメンタリーも見たけれど、朝鮮のある地方の村の方を地元に帰らせ、その村の男たちを労働者として皆連れて来させる、という方法が紹介されていた。危険だというならお金のため、我慢できる人もいたかもしれないが、お金を稼いでも、地下の金山で死ぬまでとなったらまた話は違うだろう。例えば同じようなことが日本各地であったが、北海道のダム工事に朝鮮から来て、従事していた人は、自分の意志で来たが、殺されると思って逃げたという。各港には逃亡者が佐渡から出ないように見張がいたー佐渡の人で船を出して当時助けたと言っている人も実際にいた。さらに現代でも中抜きなどは良くあるし、道徳的にはマシになっているとも言える今日の暗いニュースを重ねて見るだけで、「過去の文献」に書かれていないような例外があったのは容易に想像できる。)
「日本人も同じく厳しい労働環境だった」という意見
本当にその通りだと言える。
だから徴用工問題は、
(1). 始まりから現代まで続いている資本主義の問題。(
国内人に対しても外国人に対してもだが、特に弱者に重圧がかかる)
(2). 政権を人気にするために利用された、特に隣国に対する根深い差別、ヘイトスピーチ的な問題。
(3.) 日本では美化、正当化するのが許される、太平洋戦争前後の日本の侵攻、植民地主義の問題。
などがミックスされていて全部違うアプローチが必要だと、
みんなと話し合って、まとめるに至った。
そんな中、安倍元首相の事件が起こり、タカ派だと言われる程の人だったのに、韓国の宗教団体
を票田に使っていて... など、
資本主義下では、「国(日本)」というものは無く、国民は血税の頭数であり、超国家的な、資本家、「名家」、今昔権力者、大企業への、「でっかい強制募金箱」が国、なのだなと...。ATMと言っている人もいたが、一度繋がれば、日本、アメリカ、韓国、どの国でも、協力しながら、お金をすすれる立場の人たちに、国家の守りたいプライドで敵対...なんてあるわけがない。
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積極的に動いている方達も、佐渡を昔の賑わいに戻したいという思いと、なるかならないか、結局はどちらでも良いけれど、なった場合、受け入れ先がなかったりといった問題を地元は解決しなければいけない、という責任感のようなものが大きかった印象がある。

佐渡はとても魅力的で、そう言ったこれからの議論を、世界遺産ありきじゃなくもう一度する機会にもなると、私はそう、思わせていただいた。

この間に何回か、有志の勉強会に不勉強ながら参加させていただき、市議会議員で佐渡キリスト教会牧師の荒井眞理さんから、すでに佐渡が「世界農業遺産」であることを伺った。👨‍🌾🍅🥕🥬

"世界農業遺産(GIAHS)とは、社会や環境に適応しながら何世代にもわたり継承されてきた独自性のある伝統的な農林水産業と、それに密接に関わって育まれた文化、ランドスケープ及びシースケープ、農業生物多様性などが相互に関連して一体となった、世界的に重要な伝統的農林水産業を営む地域"

美しい棚田とか、柿とか、個性的な農業が確かに佐渡にはたくさんあり、車田の珍しい神事もあり、まさに上記の説明文の通りである。他農薬の減薬や、無農薬なども積極的に行っている。
佐渡ですごいなと思うのが、エコロジー意識の高さで、東京でプラスチックバックが有料になる何年も前から、佐渡では有料で、みんなエコバックを利用していたという。また、虫の慰霊碑すら存在する。
農業や、そう言った環境感覚は、これからの地球全体で明らかに指標となるべきもので、未来的な価値と言える。
​
こう言った自然の豊かな佐渡で、金山という、幕府、三菱直下、高い技術が使われていた一方、人の業、欲望の果てしなさを象徴するもの(金山は普通に大きな山なのだが、掘られすぎて、天辺から裂けている)をどうしても出てくる
ダークツアリズム的な側面になぜか触れず、世界遺産にするのではなく、
太古の地層が見られ、ジオパークとして楽しめる、佐渡島全体を自然遺産として打ち出せばいいんだ、ジオパークならば、保存するのに必要であろう膨大なお金もかからないのもいい。という話も荒井さんから出て、とても頷けた。

また、
個人的には金山の負の歴史と言える部分こそが、むしろ訪問者に考えさせることができるし、世界遺産として相応しいものなのではと思う部分もある。
私自身は、金山のある相川や南の方の小木などにいた、
遊女にもとても興味がある。溝口「山椒大夫」で、人攫いに誘拐され売られたあと、老婆になって彷徨う母と、彼女を探し続けた息子が再会する海辺がこの佐渡だと気づいたときは複雑な気持ちになった。
金山では、朝鮮、韓国人も、勿論日本人も長い歴史の中、さまざまな形で働いていた。
金脈が近くにあるらしい柄が岩肌に出ると、まるで金に対し、神を崇めるように儀式を行う一方、「佐渡の金山この世の地獄」「針の山」などと歌われてもいる。わたしは金山内の江戸時代の労働者の人形の展示に、その暗い歴史に対して意識的なものを感じたし、そうした奥深さこそが好きである。

徴用工の問題についても、軍艦島のような件があって、なぜ次に進めるのか...異なる時代の出来事を今の価値観で裁くことも、その国ごとにあるだろう歴史研究も難しいものだと思うし、自分の意見を丁寧に説明し、ユネスコを説得した結果だったらまだわかるのだが、安易な約束の反故で、普通にただの嘘つきで、自分の国の代表者がこんなことをしていることに純粋に驚かされる。

日本政府は2015年、軍艦島を含む「明治日本の産業革命遺産」の国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界文化遺産登録の際、強制労働を含む全体の歴史を理解できるよう措置を取ると約束したが、いまだに履行していない。


もし国が本当に「世界遺産」のオーラのあるものとして、金山を登録して、地元を潤したかったのなら、強引にやるのではなく、もっとやり方があったのではないか..。一転推薦は、明らかに何かの力が働いたに違いなかった。また、ロシアの件もあり、推薦のタイミングも全くいいとは言えず。。おそらく23年は無理だろうねと話している間に、よくわからないことが色々起きてしまった。

いつも思うのは、歴史の中、大規模な金山関係を始めたのも、搾り取るような労働をさせていたのも、佐渡の人ではない...佐渡の人は「朝一番の太陽を見るのが」「野菜を育てるのが」「海を見てるのが一番幸せ」みたいな人が本当に若い人でも多い。金山を掘るのと全然関係ないパーソナリティだと思う。(ネイティブの「佐渡の人」の定義が難しいが、とにかく山にあった金はほとんど全て、どこかへ行ったのだ。)三菱や日本の大企業は今、原子力関係も牽引しているけど、佐渡には核廃棄物処分場も作られようとしていた。前に遊びに行った鷲崎(写真5、6枚目)も候補地に上がっていたらしい。去年の夏私はずっと佐渡にいたけど、海辺ではクーラーを使うことがなかった。近くの原発の電力も稼働すれば東京へ行く。

教会に宿泊させていただいたときに隣室だったトモコさんは国連で勤務されていた方で、朝キッチンでコーヒーを淹れてくださって立ち話する短い間に、知らない世界のことを聞けるのがとても興味深かったのだが、辺野古のデモに通っているお友達のお話も伺った。
2月、3月に埋め立て予定地周辺で、ジュゴンとみられる鳴き声が確認されたことを受け

辺野古の記事で、「国がやることにいくら反対しても仕方ない。辺野古の工事が止まらない現状を見れば分かる。それなら予算をしっかり取って経済を回そう」というのを読んだけど、
「国(辺野古の工事)は止まらないから止まらないのだ」と聞こえる。
総工費は9300億円。税金。


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佐渡滞在詩 1 


しかし力が生まれ 燃えているものたちは 急速に散らばる
宇宙に開く穴の輪郭
わたしは幻を見る人と同じよう
雑木(ざつぼく)の列を横切る 今夜も巨大な電波塔から天空に発信の跡
教会では人々が息をして眠っている

朝が来て緑の壁で 8月の光は眠っていた
高校生のペンキでできたつる 鍵盤を押し込み散らばる
生まれてきたことを慰めるように潮が蠢き始めた跡
教会裏に開く夏の穴 見つめれば
ワン オクターブ上 見えない隣人が同じように弾いて
わたしの右手を優しくおおう 液体性の輪郭

誰もいない伽藍堂に 炎を護る指の輪郭
わたしは幻を見る人と眠る  
30,000年前のシベリアと同じ
純白の万物が捻り糸のような勁い筋で繋がりながら散らばる  
そこらじゅうに開けた穴 自然が塞いでくれて
なのにいつからか不可逆にしたわたしのからだに運ばれた跡を刻んで

まだ傷跡のない肉体を食べる 
駅でふと、接着し自動化した欲望の輪郭  
二元論と三次現実が刺し続けるボロボロの節穴に降り注ぐ
君への言葉が不埒な種のように散らばって  
終わりと始まりの間で鼓動しているのは  
多分1万年まえも同じだけど

正しい心と一緒にふくらました恥の跡
はげしい君の憎しみと人々の驚きが散らばる 
殺し殺され初めて、見られる 存在の輪郭
なぁ、君たちが夢で見たこと、わたしほんとにやってやったんだ 
貫けば 不完全な穴 風のようなものが唸りながら通る

君は宇宙に開いた穴 そして言葉は土であり灰
黒い円環のふるえと同じように
心臓が最後までこうやって鼓動するのは
似姿を作りつづけた証
ずっとなぞっていたあなたの天文学的輪郭
汝は∞のなかに外に散らばる  
​
散らばったもの穴に吸われて圧縮に圧縮される 0+0=0、0×万物=0 
そして液体になる 海になる 轟と凪と見えてくる無数
 
(8.1)






--------
水に浮かんだ後に、90分間、言葉を書いていた。
平らな水の上 ずっと醒めた状態で、
早かったのだが、寝ていた. 寝たりさめたりしていて.
それによって.偶然の結果が出たのかもしれなかった
具体的に居やすくなった、ピタッと入ってきたのは、純粋で笑える,微笑める, 快楽的な事柄に フォーカスしてからだった それは確かに, 一番有意義な機械に、時間をする方法.   そうだろう
それは人生にも似ていないだろうか

潜勢力の話を 行きの電車のなかで読んでいた
「しないことができる」もっと本を読めば.
ユングはこう言っているー心の中の城 . 心の中の塔 . 突起、その先端が赤く、ほのかに赤く、
前に入った人が 置いてったものに
後から入った人が アクセスできる
最初の方は、壁にたびたびぶつかって、「いってらっしゃい」という感じではなかった、その前には、すり傷や意識してなかった、爪の剥がれ?の痛みがあったしー、とにかくポジション取りで難航した それでもこの切り取られた小さな海によって わたしは 何かを取り戻すのだろう。
(7.31)


----

---  自動車
自動車という機械、絶対に接点がないだろうと思っていたものへの、意外なる愛着。走行したいという、欲求。理由は初めの方からわかっていた。ズーム、フォーカス、パン・・動き出す風景、接近ー離れー一々ガチャガチャした操作。この自動機械は、カメラに似ているのだ。



---

科学的に、ミトコンドリア的に、わかった自分の祖先、もっとよく調べてみると、グループが発生した場所が中国北部なので、そこからシベリアへ行き、アイヌの祖先となった人たちと、中国大陸を南下し、朝鮮から弥生時代の日本に合流した人たちの群れに分かれたわけだ。だから自分で多少誇りに思っていたように、わたし(たち)はシベリアの地は多分踏んでいない。合理的とも言えるけど、ハードコアな寒さに耐えられないタイプだったとも言える。それでも中国大陸を縦断したのはもちろんわたし自身なぞよりずっと凄いが。念のため、母に、母方の祖母の貌について聞いたけど、「高松塚古墳の絵に似てる」とのことで、色々明らかなのだった。しかしなぜに高松塚古墳は、あのように、ところどころ燃えているのだろう?何人かの(いつも曖昧で、数えられない)女たちは、その空間への無頓着さは、非人間的で、渡来的で、天使のようにも見える。


---
共有と所有。内面的な契機ではなく、高齢化や少子化という外的な問題によって、人類がその価値観を持っていかざるをえない、、というのが、なんとも腹立たしいし、プログラム的な感じがしてしまう。
しかもそれでも、「みんなの地球のはずなのに、土地がなぜかずっと昔から誰か(おそらく最初に線を引いた男)のもの」という矛盾は無くならないと予想される。メタバースとかいうダサい名前の何かにもマーズ火星にも、結局同じモノを持ち込もうとしている。そしてこれら人類の進歩系の全部が商売であるということに、今更ながら驚かされる。
新しい虚夢など欲しくなく、安らげる現実があればいいだけなのに。

世界の自由な使用。初期のインターネットがそんな感じだったかもしれない。Monna Lisa Over Driveの中で、インターネットの中の「かたち」を知ろうとしていた人がいた。あの時代でなかったら閃かなかった感覚だと思える。
速すぎるので、とにかく何か書き写しておくべきだと(自身に対してはー忘れるので)、よく思う。読み返すのも面倒ではあるけど、見方が硬直化する前の未分化なところまで遡って、また考えを始めることができる。


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    ​会期:3/10(金)- 3/21(火)
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