ここ最近は、ずっと映画の編集をしていた。 50時間程度のフッテージから、現在は160分まではカットできた。 頭の中をまとめる意味もあり、一旦書いておきたい。 一ヶ月前までは、数時間以下になる気配が全然なく、これは休憩入りの上映時間になってしまう、あるいは分けて上映する..?でもいっぺんに見る必要があるはずだ、と悩んでいたけど、1カットの方向性を変え、となると全カットの方向性が変わり、とにかくタイトにタイトにやって行った結果、ここまでにはなった。 しかしそれでも一般的にみたらかなり長い。 その上、これは編集してみて初めて分かったことだったのだけど、誰も彼もの「思い」、あえて言えば情念、が物凄く、(今回は佐渡で健康的に撮れたし、結構ライトな話になるかと思っていた笑)、それを三本立て続けにみたら、一般的にはヘヴィだろうかとか.. 佐渡という場所もやっぱりあるのだろうか。みんなの力だろうか。無垢なのにカルマティック、とも言える。自然の理は、やっぱり忘れていたものを思い起こさせ、それは見慣れていない。また、映画の中の誰もが、時間の中、惑星の上、物質の限界を感じる一方で、どこか遠くに声を届けることを試みている。(そしてそれは現実で生きているわれわれの世界にも繋がるとは思う、)疑似科学的だけど唯物論的なので、サブカルチャーによくあるようなポップなロマンティックさやスピリチュアリティというよりは、もしかしたらやや狂気寄りなのかもしれない。..というか、自然自体が人間からしてみると狂っていると私は思うのだが。(深い安らぎを感じると同時に。そして本能的にはもちろん逆なのだ。狂っているのは人間。) 未来篇のあるシーンは、ギリシア劇のクライマックスか何かかと思った。不条理劇っぽくもあるけれど。 美術で現場の真っ只中にいた山井隆介君に未来篇を少し観てもらい、シビアな言葉をもらって、もっと説明が必要かなぁと思っていたのだが、昨日は、マンチェスター滞在中のNozomu Matsumotoさんに未来篇、現代篇について、説明がもっと全然いらないのではとの感想をもらった。 ノゾムさんは2回ずつも観てくださり、劇的ジェスチャーの情報と、観る前には予測できないような、生活的な動作の美しさがバックグラウンドを映していることについて、また1カットが継続していく時の情報の質と量について、客観的な意見をもらえた。 生活的なシーンは、私的には正直いうと、好きなのだが、観客はこれに退屈するかもしれないな、と思っていた部分ではあったので、この意見には大変励まされた。 音も音楽もほとんど要らないでいけると、意見をもらえ、映像が伝わっていることに安心を覚えた。 山井君は一方で状況が全然わからないと言っていて、この二人からもらった言葉は一見反対に思えるけど、どっちも必要だろうと思う。 本当にかなりのあるあるだけど、個人的な思いによって長回しや対話のショットを残してしまうことがあり、それを「情報」というクールな言葉に置き換えてもらえたのはありがたかった。 私にとっては粘土とか、切ったり貼ったりの作業に似ていて、そんな風にして、ここ数週間は、160分あたりを行ったり来たりしている。あと30分切ることができたら、真髄しか残らないとも思うし、一方で映画論理を助ける潜在的な線もプッツリ切っちゃうかもしれないなぁ..という思いもあり。なかなか難しい。 そのシーンを撮ったという事実は、その後の役者やスタッフの存在感や関係性に微細な空気として残るはずと思う一方で、「観客にとっては見えるものしかないのだから」という考え方も根強くある。 ただそのラインが、2回見てくれたノゾムさんが気づいていないとしたら、機能してないわけで、バッサリ行っても何ら問題ないとも言える。 例えば、液体、気体、固体、などと、それぞれを別の状態の映画だと考えれば、編集ももう少し(液体や気体に対しては)大胆になれるし、三つのパートの相互の構造的サポートもできて、全て観る意義も深まるかも。(フーガ、とかも思っていたが、アクチュアルではなかったか) また、三篇で共通するのは音楽で、音楽のおかげで編集で手放せそうだ。 イリュミナシオン、デュアル・シティでは、死にたくない、ではなく、死んだ人に会いたい、が人の最大の欲望、願望だと考えるところが起点だった。(三部作目もあるのだけど、ネオレアリズモのようなことをもう一度したいという気持ちは一切ないので、撮るべきではないと現時点では考えている。全て2011年3月11日の地震とそれによって続いている変化や明らかになったことが契機となっているという意味では、三部作目が『コスモ・コルプス』であるとも、言えるのかもしれない。*) 今回は、私の実人生での神秘的体験、さらにいつもカメラを持っているからこその実録映像あり、を、映画と接続するのを一つのテーマにした。でもそれが事実かどうかなんて、他者は結局わからない(映像残ってても)。 そして映画を撮ることで分かったのは、確かに常識的ではない稀な神秘体験を私は何度かしたけれど、ふと自分の身の周りに広がる風景やひとに思慕を感じている時、ああ全部これは神秘なんだという、これもよくある感慨だった。そしてそう言った時にはもう、映画的であるとか、映画を撮っているとかそういうことは後景に退いて、ただ生きているということが、そこに現れるのだった。 --- 以下にはやや残酷な記述があります。 *もう一つアセンション・リバーというタイトルの物語を作りたいのだが、これは実際にあった猟奇的な事件に基づいた話で、映画化したいとは思わないので、ー映画はどんなに共同で作っても、基本は起こすことのサディズムと起こったことの傍観なので、記録する価値があったり、感情的な昇華ができないものを、コレクティブでやるべきでないと思っている。(文字通りの)ゴミやカルマを映画制作で増やしたくないという気持ちもあり、個人的に作って納得すればいいかなと。。 これは、2012年の動物虐待の事件で、数年後、アライグマが犯人だという、何とも言い難い形で幕が引かれたのだが、その後も散発的にそういった出来事は続いていて、愛好家もいて、インターナショナルに行われているのが摘発されたというニュースも最近ではあった。書きたいと思いながら、2023年になってしまい、もはや、こういった暗い欲望を中心とした作品の、今日的意義があるとすれば何だろうか..。みんな快感ですらやっていなくて、お金や目立つことが動機なのだから。時代遅れだし、素材としたとしても現実よりもずっと虚弱なのでは?と、考えていた。 しかし最近真弓さんとの読書会のために読んでいる『ジェンダー/セクシュアリティ』という本の中にあった、「生-政治とは違う線ーーそれを、ここでは取り敢えず「マゾ-政治」と呼んでおこうーーを、ヴェイユから引き出せないか」というとても面白い言葉に、すこしだけまた希望を持った。 2012年の事件について、やはりここでも、潜在的な動機としての誰かの祈りに興味があったのだと思った。だから、自分は物語化するとしたら、そこをそう読み取れるような物語にしたかったのだろうと。古代、人間は生贄を神に捧げていた。最近、私自身がお肉をあまり食べられなくなり、生贄にする行為は、食べるときに殺すことへの感情的な葛藤があったからなのではないかと身近に感じるようになった。その矛盾に折り合いをつけるためにあえて殺して神にも食べさせる。あるいは自分と同じ人間の誰か(="自分"自身の一部)を生贄にする。ヴィーガンですら植物を殺さなければいけないわけで、そこで筋を通すことは難しい。そういったことをまざまざと見てしまう人が、罪をあえて犯す方向性にいくのは、罪によって罪を塗り重ねて見えなくする、あるいは、罪を(そのままでは苦しいので)快感にする、という心理は、理解できた。また、2012年当時、動揺の中で、社会全体が注目するもの(反原発など)があったので、その裏で起こっている事件、という感じもあり、連続しており、発見場所もネットで探すことができ、何かのメッセージなのかな?と地理的妄想が広がっていった。何度か現場を周りもした。しかし前述した通り、今では、もっと即物的な事件がたくさん起きている。そして一番にはそう言った即物的な事件に関して、自分はどういう気持ちなのか理解が及ばず、インスパイアもされない。でもお金のために殺すのは、生業のために殺すのと同じではないかという理解の仕方になってしまったりもする。生業でやっている方達が心を動かしていたら成り立たない。同じ心理状態とも言える。そしたら今度はなぜ殺されるべきものと殺されてはいけないものが存在するのか。こういう厨二病的な矛盾はやはり決して解けないのだと思うけど、せっかく作るとしたらそういうところについて自分が考えざるを得ない装置としてそのうち物語を作りたい。「マゾ-政治」についてはまだ意味がわかってないけど、サディズム過多の件だったので、これはと思った。 この本自体、根本的な考えのもつ、透明感(?)があるというのか、とても面白い。
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October 2024
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