先週、未来縄文編と仮題しているパートを撮影した。 晴れ男のヤマモトユウセイ君のおかげで、天気予報は雨も多かったが、佐渡は全日、夏のような快晴と言ってよかった。(今日また台風が通過して、秋が来た感じがしている) ユウセイ君は、10年ほど前に撮影した初めての映画、『イリュミナシオン』という映画に、「キクチ」という役で出演してくれている。 キクチ(ユウセイくん)の『イリュミナシオン』での輝き(淡々とした中で調和を破りたがり、破る、一方でだからこそ映画全体の抑圧をその分一番表現して、独特な気持ちになる存在感)をびっくりしてくれた人は自分の周りでも多かったが、今回タイヨー役で再び関わり、撮影させていただいて、やはりミラクルを起こす人、心底創造すること遊ぶことを欲し、それらをしている人だと思った(し、自分はそれを絶対逃さないようにしようと思った)。受けたことのないような速い球、変な球を投げてきて欲しいのだ。 しかし今回は対になる主役がいる。ミツキ役のしみずさきさんだ。 最初に彼女のアップをカメラから覗き込んだ時、凄まじく異次元に引き込まれた。"生まれたての雫のような黒い炎"、と言う感じで、遠い未来まで見通していそうな強さと、ものすごく寂しげな眼差しをただ見ていればいいというだけだった。本当にミツキと言う人がいるのを見ていると言う感じだった。 この二人と私は普通にコーヒーを飲むような友達だったけど、なぜか寝食を共にする機会があり、映画を作ってみて気づいたのは、潜在意識が非常に刺激される、そういった"人類が喪失した記憶"モードでの対話が可能、ということだった。 タイヨーとミツキがどんな人物なのか、「海」はこの二人の世界の中ではどんな意味を持つのか、そしてその世界は今の私たちの世界や時とどう繋がっているのか、たくさん話したような、全然話さずに済んだような不思議な感じだ。 佐渡での撮影というのもあってなのだろうか。 また、ゆうせいくんがプログラムをしてくれて、日本語とほぼ一音対応の「ヤマモト語」というものを作り出し、異語でのコミュニケーションも行っていたからだったのか。 言語に関しては、元々は、さきちゃんが、アイヌやシベリアで使われている、『抱合語』を教えてくれ、そのコンセプトで作った言葉を劇中に話そう、というのが始まりだった。 抱合語 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%B1%E5%90%88%E8%AA%9E 意味が繋がり、長い一つの単語を生成していくと理解したのだが、その言葉が表すものや、見えている世界について想いを巡らすことで、まるで環境や自他の境界線がないような「未来縄文人」についての共通項を持てた。結果的には抱合語ではなく、日本語ベースの言葉になったけれど、作品全体に大きな影響を与えてくれている。また、非現実的な設定もある中で、言語があるということが、「未来縄文人」の実在を信じるとっかかりになってくれた。 また、この映画のハイライトの一つは、やはり『未来編』と同じく、山井隆介君の美術だろう。 そして、そこでのユウセイ君の身体の反応と、佐渡の自然だろう。 山井君の持ってるスピリチュアルな唯物論、恐いぐらいのカルマとダルマの絡み合いは、子供でも大人でも、ヒトの記憶とソーゾー力をとんでもなく刺激すると感じる。 シンプルなモノと人の体の動きのみで、進化の歴史、赤ん坊が生まれる瞬間などが目の前の光景に多重露光されているようだった。このシーンは、この記事には掲載していないが、公開するのがとても楽しみだ。 また今回も、佐渡の南の方の「小木町」のゲストハウス、iroの横山裕子さんには非常に助けていただいた。 ゲストハウス Iro https://posadairo.localinfo.jp/ https://www.booking.com/hotel/jp/iro-zuo-du.ja.html ・・と、同時に、裕子ちゃんは現代編のメインキャストでもあります。 この記事の末尾にありますが、最後に現代編の、裕子ちゃんのシーンを撮影して、一年以上形を変えて撮ってきたこの映画の撮影は終了になります。 それはすごく納得のいくことで、この映画や撮影を、裕子ちゃんに最後まで見てもらいたい。これからはそこへ全力で向かっていきたい。 最後に、撮影は山井君に助けてもらいつつ、水中以外は、自分で行った。 まるで彫刻家が彫刻刀を持って仕事をするような感じだった。 どんなに肉体的に疲れていても、カメラと接していると無尽蔵に力が出てくるとも思った。(仕事が終わればお風呂に入れると思っていたのもあるが..) 自分はやはり撮影が一番楽しいことの一つだ、ということを認めざるを得なかった。(脚本を書くこと、世界観や人物について話し合うこと、編集も好きだが、撮影はやはり、初めて生まれていく世界を観る感じで、すごい納得-感動する。) カメラ越しに見ることで、OKか否か、どのカットが次に必要か、はっきりとわかった。 さらに、自分の目-体、カメラ、演者やモノ、世界、が回路のようになっている感覚もあった。 Click here to edit. Click here to edit. 次回がCosmo Corpusの最終撮影になる。 その主な撮影場所である、佐渡基督教会。 この、自然が向こうに透けて見える十字架を見たとき、地球儀の話を聞いたとき、また牧師の荒井さんたちや教会に集まる皆さんとご飯を食べたとき、ここで撮影することが映画にとっても自分にとっても必要なことだと、とても思いました。 映画を作っていると色々なことで本当に疲れ、答えが出ず、そういう基本的なことも忘れてくるのですが、何度でも出会いの瞬間に立ち返り、とにかく縁があり、あった、これからあるであろう、魅力がある人やもの、ひいては世界、の潜在能力を出せるように淡々と頑張る、そして、それらを見てもらうため、完成させる、「形にする」、ことをやりきろう・・、と、改めてこれを書いていて思いました。
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September 2024
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