4/3の毎日歌壇の水原紫苑先生の選で短歌を掲載していただいたので、もし目に留まったら見てみてください。デジタル版もあります(有料) https://mainichi.jp/articles/20230403/ddm/014/040/033000c 「弟の描く始祖鳥は泣いている無痛のはずの鎖骨の消失」 "The archaeopteryx drawn by my brother is crying / The disappearance of the collarbone that should be painless" (translated by GPT-4...) --- 水原先生が、新聞歌壇の選者になると言うのに驚いて(twitterをやっていらっしゃる、パリに留学されていると言うのも驚きましたが)、一年は二週間に一度ずつ出そうと思っていました。 短歌をやろうと思うと、結社に入ったり弟子になったりという選択肢があるのですが、私はもし水原さんがいらっしゃる結社があったらそこに入りたいと思っていました。 なぜかというと、日本の精神を受け継いでいる方、研究者気質な知性があり日本文化に愛されている・必要とされている方、さらに(それよりもっと広範な、あるいは時に矛盾すらする)古代に対する神聖な感性を持っていて、そしてコスモポリタン的というのか、普遍的な未来の社会像が自然に入り込んでいるヴィジョンや、人間だけに向くことのない、強い愛や理解やコミュニケーション感覚を持っていらっしゃる方は、水原さんほどの方はいらっしゃらないのではと思っているのがあります。さまざまなことを書いてしまったけど、これからの時代に必要な方でそういう方が日本の伝統文学を活動の場にしていらっしゃるのも必然的に思えましたし、外国語もハードコアに学んでいらっしゃるのは何か素晴らしいと遠巻きに思っていました。 ただ、水原先生がパリでよく行くカフェで、"Cosmo"と言う名前の場所が頻出するのを最近知ったのですが、私が"Cosmo Corpus"と言うタイトルの映画を作っているのは完全にコインシデンス、シンクロニシティです。そのほうが正直言って不思議ですが........ しかしながら「コルプス」は、ジャン・リュック・ナンシーの本とキリスト教文化からでしたが、「コスモ」がどこから来たのかは覚えておらず... タイトルを決める時、いつもいくつか要素を書いて、それを全て網羅するような言葉を見つけるのですが、当時は「宇宙的孤独共同体」という意味をタイトルにしたく、また身体がなくなっていく時代に対するポジティブなニューエイジのニュアンスが欲しかった覚えがあります。 言えるのはこういった符合は私にとっては、何となく嬉しいということです。 (あともう一つ偶然を思い出した、前に大阪へ行った時にカメラ屋さんでジャンクのフィルムカメラを買ったのですが、説明書もなくただ刻印だけを頼りにネットで探すと、上海海鷗照相機の、「海鸥203」が出てきた。なんでも、本人が女優でフォトグラファーでもあった、毛沢東夫人の「江青」が、ライカに匹敵するものを、と作らせたブランドらしかった。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E9%9D%92 そして水原さんの歌で最初に好きになったのが 汚名また美しきかな江青はいかなるひびきの河にありしや 水原紫苑(『びあんか』収録) 歴史の事実が写真の連続のように集団意識の中に流れている上で(ゴダールの映画史のようなイメージをその時思い浮かべた)、「江青」という言葉自体が持つ新鮮な美を、意味とともに重層的に歌っているなぁと、しかも「(ひびきの河に)ありしや」の音感でなんとなく私は雄大な河をイメージしてしまうし、汚、という字、名という字、汚名という意味もまた重なり、心や頭や感覚のいろんな部分が動く、壮大な気持ちになる。 でも私は、このカメラを買った時は「中国語の刻印が可愛い」くらいにしか思っていなかった もしかしたらカメラや江青のことを調べていくうちに、水原さんの歌に辿り着いたのか?...もしくはカメラの出自を知った時、水原さんの歌をもう知っていたのだったか?驚いた記憶があんまりないし、偶然すぎる気もする。..もはや因果は全然わからなくなっているのですが、こういう選択の前の混沌(ポテンシャル=自分はこの言葉を読むと、いつも池を思い出す)こそが、生きていく上で基本的なことなのかもしれません。) ここ最近まで完全に短歌外の世界にしかいなかったビギナーだから尚更思うのか、短歌には本当にすごい人物がいると思います。不可能な比べかたですが、小説家の作品と比べて、文学的価値がずっと高いのに国民的には知られていない人が大勢いる感じがあります。また、国際的にというとさらに途方もない気持ちになります。 齋藤史歌集『記憶の茂み』などで英語に翻訳された歌を見ると、短歌の性質上、ただただ翻訳不可能(他言語から日本語へもそれでどれだけ不可能なのかがわかる。100層くらいの構造が、薄い紙一枚にまでぺちゃんこになる感じ。でも、よく文庫本とかの冒頭に詩の短い文章が載せられている時があるけど、そういう意味を読み込む余白とオーラのある感じでは可能なのかも。)ということを感じてしまうけど、もし翻訳できたら、そして世界中で興味を持つ人が多くなったら全体の価値観を大きく変えるような、トップの世界文学だと感じています。 上記の自分の歌は、インスタにアップしたらスペイン人で日本にいる、rafaさんが、美しいと言ってくれました。グレイのイメージだそうです。私は実は「弟」と言う時点ですでに青っぽいイメージなのですが、でもグレーっぽいブルーでもいいのかも。rafaが言ってくれたその美しさをまた、私は確実には感じることができないのですが(おそらく差異があると思うのですが)、そう言ってくれるなら、別に人によって解釈がズレ続けても美しいのならいいかな..ともちょっと思いもしました。 歌を始めたいと思ったのは、上記に思い出した江青のことを書いたのですが、他には塚本邦雄の影響、講談社文芸文庫の『詞華美術館』ていう、塚本邦雄が和歌だけではなく、古今東西の詩的言葉を集めて堪能する本がお店の短歌コーナーにあって、それで完全にハマってしまいました。この講談社の塚本シリーズは結局全部揃えました。
またその頃読んだ歌は軒並み凄かったです。読む側では長塚節が、(結果的に作風全然違うのですが)今でもなぜか一番共感する歌人です。 それから、『<殺し>の短歌史』で、明治天皇暗殺計画を立てた菅野スガや、「六十年・七十年安保闘争の」の歌、例えば 女らしさの総括を問い問い詰めて「死にたくない」と叫ばしめり 坂口弘 などを読んで、非常に衝撃を受けました。 これは、集団リンチの歌ですが、これまで知ってきたどの連合赤軍の情報やフィクション化された作品よりも直接的な告白なのか告白じゃないのか..みたいな、でもどこにも書いていない(表象できない)レベルの事実ということはわかり、非常に残酷で、坂口弘、という名前と歌との間の永遠の循環があり......でも一方で罪を歌を通して体に入れる際に心に残る聖なる何か...、罪を怪物じみた天使のように飲み込んで響きにする歌というもの.....これはなんなんだろうと思いました。 また、和歌の誕生や生存は天皇制と切っても切り離せないのに、反体制の人々までもが牢屋の中で歌を詠める(入り込む、混じってしまう)、詠まざるを得ない矛盾と言ったらいいのか、歌のミュータント-変異と言ったらいいのか(刑務所の中では短歌や俳句などを読むのが奨励されるという話も聞きましたが、それでも坂口のような歌を作るのは全然違う動機の流れを感じます)、簡単に間口の広さと言えばいいのか... その横に確かあった本にさらに 殺戮に堪へむとならばニネヴェーに征け地球の肺腑かくも青くて 山中智恵子 という歌があり、この下の句「地球の肺腑かくも青くて」を一瞬ではっきりと覚えました。地球の肺腑、と言う言葉や、浮遊感覚にも、強いヴィジョンがあり、日本語の表現の無限性、日本文学の一番ハードコアなものを知ってしまったという感じがしました。 またハンセン病患者の明石海人の歌の視覚を失った後の指先の虫が、羽を広げる感覚の歌などもすごいです。ものすごい膨大な場所です。 本格的に始めたのは、毎日新聞で、山田航先生の通信添削があるのを知ったことです。コロナの時だったこともあり、封筒に5つ歌を書いて、赤ペンで直していただく、という古風なコミュニケーションが面白く、また、初回から自分のSFへの傾きを見抜いた的確な感想や、この歌風だったらみたいに歌人を推薦していただいたので、すごく勉強になりました。しかし、結局一回目(2021-22)は、6回すら送ることができず... 一番大きな理由は、ポエジーの真髄を学びたいということだったとも思うのですが、でも、現代詩には自分に必要なポエジーを感じられなかった。歌人の人たちが、歌を作る営為はすごいものがあるなと思っていた。受け継ぐ、受け継いでもらう、という伝統が一つにはあるし、そこに垂直的に、歌を歌う、という行為の(世界)文学的孤独と、同時にそれと正反対の「歌によってこれまでの無限の歌、無限の言葉、感情、と繋っている」と本心で信じる強さというのか...それが短歌はネイティブであるように思います。(最近の流行下では違うのかもですが) 万葉集や古事記を遡っていくと、稗田阿礼の頭を突き抜けて、全然残されていない風景、人間性、自然との関わりやその現れ、が広がっているのだと思っています。わたしは現代的な感覚ではなく、そういうものと触れるためにやりたいのですが、古語が現時点でできないので、その制限によって全然作るものが異なっています。 その結果、「日本語の美しさに集中した方がいい」「読んでいる人にとっては、一首一首、変身譚のようなもので、泥水から聖水へ飛び移る、というようなものだと思う」と非常に鋭いことを、ほとんど短歌の知識はないはずの山井くんに言われ...、その比喩自体がえらくポエティックだな、美しいし、歌の本質をもう捉えてる気がするな、と感心してしまって、一方で、自分は全然歌の感性がないのかもしれないな..=ポエジーがないのかもしれない、と諦念を抱いていたところでした。(ただ、今私が感じているSF、翻訳書き言葉、同時に外国語的な重層的な歌の構想は、自分はもう少しやってみたい気持ちもあるのですが。なんか、ルビが三重くらいある歌ができるのです。「それを日本語に落とし込む」のが、その情報の圧縮性、コネクターみたいな不可能性の追求が、ポエジーの力になっていくとわかっているのですが、同時に、「こういうアジアの建築物みたいな歌だって、あっていいんじゃ?」とも思って、作ってはいるのです。) ここまで長々と、書きましたが、私はこういう文章は本当に適当に書いてしまうのですが、歌となると、「トカゲの涙」ほどしか作れません。書こうとすると、しばらく歌だけの生活を送らないと、すぐ勘をなくしてしまう感じです。1000、記憶できる歌を作るのが夢、恐竜の涙をヤシの実か何かで受け止めたい、と思っているけど、一つ一つでも大変なのに、うーん、そんなことが果たしてできるのだろうかと...ただ別に、歌を作ると別の階層のコミュニケーションはできて面白いのですが、短歌は感性豊かな方々がたくさんいるし、普通に読んでいて感動するので、読者、観察者でいいとは思っています。 でも、今回のことでささやかですが縁を感じることができました。論理や因果で色々理屈をつけてしまうけど、自分が一番繋ぎ止められるのはやはりそういった、運命的な感覚なのだと思います。 --- 真弓さんとのウルフの『灯台へ』の読書会は、すでに今日5回目を終え、毎回最高です。まるで毎週お待ちかねの番組を見るような感じでいつも楽しみ。いつも20~30ページくらいずつ調べ物をし、音読し、話し合っているのだが、そろそろ、分割の仕方がわからない、すごく長い「魔の17章」で第一部の峠を越えそう。 毎回二時間くらい多くのことを話しているので、まとめたい気持ちもあるが、結構内容自体に引っ張るところが多いので、とりあえず読み終えようと思う。 雑談の時だったが、今日は、ふわふわの巨大な風船人形の中に入って飛び跳ねるやつのことを「子供の頃めちゃくちゃ楽しかったこと」として話した。真弓さんもあれは相当好きだったということだった。「大人になったらこれ入れないんだ」というのを意識したのを覚えている。自分の特別の思い出だったのだが、みんな好きなんだと思った。笑 身体性、安心感、今だけしかない感じ。すぐ歓喜として思い浮かぶのはそれだったが、今日、自分の歌を選んでもらっているというのを知った時も、やはり大きな歓喜だった。
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Author▷TĚLOPLAN『THE PAPER』《恬静 IDYLLIC DRIFTERS ISSUE》での細倉真弓さんとの対談 Archives
April 2023
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